平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

書くと決めたというわけです。

おっとまたもや宣伝広告が軒先を占拠しておる。それだけ更新を怠っていたんだなあと自らを省みつつ、慌ててブログを書き始めた月曜日の夜。本日は学生が教育実習をしている学校への訪問のために、一日中、姫路辺りを車でウロウロしておりました。どの学生もしっかり取り組んでいた様子にホッと胸を撫で下ろしての今ということになります。みなさん、こんばんは。

これだけ更新が滞っていれば多くを語らずともわかるかと思うが、書くことへの意欲がどうにもこうにも湧いてこない時期がずっと、ほんとにずーっと続いていた。2011年の秋に毎日新聞への連載が終わってどこか気持ちの上で、あるいは書かなければならない緊張感みたいなものがプツンとキレてしまったかのようで、どうにも気持ちが乗ってこなかった。乗らない気持ちをどうにか奮い立たせようとあくせくして、そのジタバタでさらにテンションが下がるという悪循環に陥っていた。

だがそんな負のスパイラルももう終わりだ。ミシマガジンの連載が決まり、次いで住ムフムラボでの連載も始まって、そんな情けないことを言ってられない情況になって、徐々にではあるが気持ちが上向いてきているのは間違いない。これをきっかけにまた書きまくってやるぜと、いつぞやの好感触が戻ってきつつある気配がマンマンなので乞うご期待である。今度こそ本当である。

てな具合に半ば強引に意欲の減退傾向を打ち破ろうとしているわけだ。しかしこれはれっきとした一つの方法だ。意欲というのはやり始めないと湧いてこないものなのだ。確か以前に読んだ池谷裕二氏の本にそう書いてあった。そのことをすっかり忘れていた。大切なことはいつのときも失念してしまうものなのかもしれない。だから書かなくてはいけない。おお、そういうことか。

いいものを書こう、これぞというものをきちんとしたかたちにして差し出そう。そう思い過ぎると、だんだん書けなくなってゆくことがよーくわかった。それから、これまで一度も書いていない新しいことを書こうとし過ぎると、なーんにもネタが浮かんでこなくなることも、よーくわかった。一人の人間が考えることなんてそう大して変化するものではないのだからして、自分が興味を抱くことをじっくりゆっくりスルメを噛むようにして深めていけばいい。しかもパッケージを気にすることなく思考の軌跡をなぞるだけでいいのだ。

とにもかくにも考え過ぎだったことだけは確かで、つまりは頭の支配からどれだけ自由になれるかが大切なポイントだ。固定観念や社会通念にしなだれかかろうとする頭の支配から逃れるために、さしあたって思いつくのは身体を動かすこと。そもそもこれまでの僕の人生は身体を動かし続けてきたわけだから、そこが緩むともうどうしようもなくなる。いまさら頭だけを使って思考することなどできやしなくて、無-意識を司るいわゆる「こびとさん」に何とかしてもらわないと立ち行かない。てなわけで、もう一度、原点に戻って、身体を鍛え直しつつ書き散らかしてやろうと思う。

明日は雨、か。ようやく梅雨らしくなる、かもね。