平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

背中と腰の境目をめぐりながら痛みの効用を考える。

新年度が始まって2週目も半ばを終えた。今週は金曜日にひとコマだけだ。先ほど終えた授業は「ラグビー」。ほとんど未経験な学生たちを前にラグビーを教えるのはとても骨が折れる。専門用語をつい口走りそうになるのでそれを抑制するのに気を使うわけである。ラグビー経験者ならば一言二言で済む話をときに実演を交えながらじっくりと説明しなければならない。途中から何が言いたいのかがわからなくなって右往左往することもあるが、こちらが伝えようとした内容にピンときた学生のあの表情はすべての苦労を水に流してくれる。

しかしながら今日はそんな雰囲気にはならず、終始ずっとダラダラしていたので少し喝を入れる。体育なんてものは必要以上にきびきびやるものではなく、どちらかといえば遊び的な雰囲気でのびのび身体を動かした方がいいに決まっているのだが、守られるべき規律はある。それを破れば容赦はしない。学生諸君、そのことは肝に銘じておいて欲しい。次は知らないよ。

さてと。

それにしても今日は寒かった。車に乗り込んですぐにつぶやきたくなるほどに、寒かった。そりゃ背中も腰も痛むってものである。特に腰が痛い。と書きつつ自分の身体に意識を向けてみたら、どこからが腰でどこからが背中なんだという疑問が湧いた。背中という場所の一部分が腰なのか、それとも背中と腰にはなんとなくの境界線があるのか、どうなんだろう。英語では両者ともにbackだが。

お風呂上がりにするストレッチおよびストレッチポール(固めのスポンジを使った円柱形のもの)の上で背中をグリグリっとしてると、確実に背中と腰はつながっていることが感じられる。肩胛骨を広げたり背骨を伸ばしたりすると腰のあたりがパキッと鳴ったり、背骨伝いにだるさや痛みが行ったり来たりする。ここにこうして書くまでもなくこうした身体への実感は当然のことのように皆が感じているはずなのに、「背中」「腰」という言葉を使うことでこの実感から遠ざかってしまう。今自分が感じている痛みは「背中」にある、もしくは「腰」にあるというワーディングで身体イメージが決められる。

でもね、背中と腰は当たり前のようにつながっていてだからお互いに関係しあっているから実のところどちらかが痛いということにはならないのである。

痛みがあるから、痛みと付き合う姿勢でいるからこうしたことが実感としてわかる。痛いのはまっぴらゴメンだけど、でも痛みがなくなれば死に一直線なわけでだから痛覚はとてもとても大切な感覚だ。だから痛みとはお付き合いする習慣を持たなければならないと思うし、お付き合いしている暇もないくらいの痛みを感じればすぐに救急車を呼ぶわけだから、そこんところは心配する必要はない。なんというか、痛みがあるというのはある意味で大切なことで、わずかな変調を痛みや気だるさとして感知しうる身体は、考え方によっちゃあ大きな病気を未然に防ぐことにもつながるわけであり、だから上手に付き合うことが何よりも大切なことになる。

とにもかくにも、言葉をあてがうようにして身体を理解することには引退した今になっても、いや今だからこそ大いなる抵抗があり、僕の身体からそのようなシグナルが送られてくるあいだは、銭湯に足を運んで身体を温めたり、ストレッチしたりストレッチポールの上でグリグリしたり、股関節や肩胛骨辺りの柔軟性を高めたりしていくことだろうと思う。誰に向けての宣言かよくわからないが、まあそういうことだ。