平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

身体からのメッセージを聴く。

そういえば筋肉痛にならなかったなあ、とふと気がついた。

大学祭で教職員による餅つきで約30kgもの餅米をつきまくったのが日曜日だからかれこれもう1週間が経とうとしているけれど、その間に腕や肩まわりから腰にかけてのどこも痛くはならなかった。翌日の月曜日は元気に過ごしていて、もしかしたら筋肉痛は明日以降か?なんて心配をしていたものの、ついにそれはやってこなかったのである。

なんでやろかと考えてみたところ、一つの答えが浮かんできた。たぶんだけれど、身体の使い方が変わりつつあることの一つの結果なんだろうということである。

餅をつき始めてすぐのころは肘から先に強い抵抗感があった。これはおそらく手首を過剰に使っていたからであろうと思われる。上手く強くつこうとするがあまり、もっとも使いやすく、そして使っているという実感が得られやすい手先に神経が集中してしまっていた。その結果として肘から先の部分への負担が大きくなっていたのだろう。「ヨイショ!」と餅をついてから杵を振りかぶるときに、手首に頼りすぎていたなと、今思い返してみてそう感じる。

肘から先にまとわりつくこの「いやーな抵抗感」を何とかしようと、杵を握る手の位置を工夫したり、股関節あたりに意識を持っていきながら身体全体で杵を担ごうとしてみた。すると、しばらくして手の先のだるさがなくなった。「いやーな抵抗感」がなくなったのである。ちなみに手の位置だけれど、右手は杵のほとんど先の方を握るようにし、左手は握り拳2つ分位を余すようにして握った。これは、てこの原理ではなく、足裏を垂直離陸させる(@甲野善紀先生)ことで最大限に重力を使えるようにイメージしての工夫である。杵を振り下ろそうとして身体が動き始めてから「加速度的に」杵を落下させるのではなくて、頭上にある杵をうねらさずに「一気にズドン」と落とし込む。そんな感じを頭の中でゴチャゴチャと考えながら行き着いた持ち方である。

そのおかげであまりバテることなく最後まで餅をつき続けることができた。

と自己満足的に、また自らの身体を誇らしげにそう思っていたりする。

ただ、手の平だけは翌日に痛みが残っていた。痛みというか、「握力がなくなった」ような感覚のだるさである。腕も肩も腰も痛くないということは、それらの部位を集中的に使っていたわけではないことを物語っているわけで、それを裏返すと、手の平に少しだけ過剰な負担をかけていたことがうかがえるのである。そこから推測してみると、たぶん杵を握るのに余分な力が入っていたのだろうと思われる。「ペターン」とうまくつけたときは大丈夫なのだが、身体の各部位の連携が少し乱れると餅をついた瞬間に杵はグリッとよろけてしまう。餅つきの経験がほとんどなく不慣れな僕はその度に「あっ、しまった」と感じるわけで、「グリッ」とならないようにと杵を安定させようとした意識の働きがおそらくは余分な力での握り込みにつながったのだ(たぶん)。

握力計を握るときのように「ググッ」と力を入れてみると、肘から先の筋肉が隆起し、緊張するのが分かる。ということは、何かを強く掴みすぎると肘から先に負担がかかるということで、体幹部や下半身にまでスムーズに力が伝わらなくなる。あくまでも握るのは軽くでよいのである。杵と手の平が触れる面すべてに圧が均等にかかるようにして握るくらいがちょうどよいと思われる。「圧が均等にかかるように」というのは以前に甲野陽紀さんから教えていただいたことであり、なるほどここにも十分応用が効くのだなと、複雑極まりない身体の使い方についてこれほどまでシンプルなことばで表現できることの素晴らしさを改めて知り、それを実践しておられる甲野先生と陽紀さんに対する尊敬の念がますます湧いてくるのであった。

身体を使おうと思えば、何もわざわざスポーツジムに通ったりしなくても日常的な動作一つ一つを意識するだけで事足りる。講義で使うプリント何枚かを一つにまとめてホッチキスで留める作業にしても、より効率よく手を動かすことに意識を持っていけば楽しい作業に早変わりする。健常者にとって当たり前な「歩く」ことでさえ、意識を持っていけばたくさんの発見がある。たぶん、私たちの身体に秘められているあらゆる力は、そのほとんどが眠ったままなんじゃないかと思う。特に僕を含めて現代社会の都市部に住んでいる人はそうだろうと思う。身体のポテンシャルを開花させるための第一歩、それは「自分の身体には想像もつかないほどの力が秘められている」ことを認めて、身体から発せられるメッセージに耳を傾けることだろう。そうしたメッセージの中にはノイズもたくさん含まれており、というよりもある程度まで身体が練り上がってくるとほとんどがノイズだけれども、そのノイズを解釈しようと努力することで身体は錬磨される。ノイズを解釈する努力を放棄し、自分ではない誰かに丸投げして架空の答えを宛がってしまうと身体はひん曲がる。僕はそう考えている。

ラグビーを引退してからというもの、まるでモグラたたきのモグラのように身体のあちこちから痛みやだるさが生じてくる。明らかに原因がわかっている痛みやだるさもあれば朝起きて突然生じるものもあって、なぜその箇所が痛くてだるいのかについて過去を振り返ってみると現役時代に患ったケガに行き着くことが多い。人間の身体というものは少々の痛みならば動かせることができるようになっていて、たとえば左足首を痛めていたとしても、左足首に負担をかけないように身体全体でバランスをとることで見た目には通常に近いように動くことができる。しかし実のところは、左足首以外の箇所にこれまでとは違った負荷がかかっているわけで、左足首に痛みを感じることなく走れたからといって完治したわけではない。これまでとは違った身体の使い方で痛みをカバーしているだけということもあり得るからである。たぶん、たくさんのケガをした僕の身体は、ケガをする度に身体の使い方を組み直してきた。中には、痛みを押してプレーすることもあったのだから、そのときには身体全体がフル稼働してケガした箇所をかばっていたと考えられる。おそらくはそうした無理が積み重なっていって、身体が「もうこれ以上はできまへんわ」と泣き言を発したのが脳震盪の後遺症だったのだろう。

だから今、僕の身体は各部位がバランスを取りながらの調整を行っていて、そのプロセスで痛みや怠さが生じるのだと、そう考えている。元の身体に戻ることはないけれど、今現在の身体が最適な状態を目指して胎動していると、そう思う。

それにしても僕の身体はよく頑張ったと思う。もともとラグビー向きのムキムキな身体ではなかっただろうに、19年間もよく走ってくれたものである。甲野先生の講習会に行けばとにかく動きたくなって身体の深奥が疼く。SCIXでの練習時に中高生が伸びやかに身体を使う様を見ているときも、疼く。今のところそれ以外のことで身体が疼くことはない。なので今しばらくは痛さやだるさや違和感とじっくりお付き合いしていこうと思っている。