平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

運営サイドと「トップ・トップアスリート」の共犯関係。

講義を終えたばかりの研究室で、すっかりほったらかしにしていたブログを書き始めてみた。これだけ更新が滞ると書き始めるまでに何らかの決意が必要になる。これまでの経験がそう言っている。だからこうして書き始めたということは何らかの決意をしたはずなんだけれど、どうやらそれをうまく説明することはできそうもない。まあいい、書き始めてしまったのだから。書き進めるうちにわかってくるはずだし、もしかするとわからないままかもしれないけれど、別にわからなくても困るのは僕だけだから特に心配する必要もない。

先ほど終えた講義は「スポーツ文化事情」。スポーツ文化に関してのお話をする時間である。先週はドーピング問題について話し、今回は先日亡くなったサマランチ氏の功罪をめぐって今日までオリンピックがいかにして変遷してきたかの話をする。キーワードは「商業主義化」。近代オリンピックは資本主義経済と分かちがたく結びついたイベントである。トップアスリートが自らの身体能力を競い合う華やかなイベントだというのは表向きな話で、その裏側には決して無視できない数々の問題が潜んでいる。そのひとつひとつをもったいぶりながら話をしつつ、どちらかといえばオリンピックには無垢な視線を送っていたはずの学生たちを揺さぶってやろう。そう思ったのである。

近代オリンピックがお金まみれであることはもちろんのこと、人種差別や貧困問題が背景にあることも見逃してはならない事実である。日本ではメダルを手にすれば報奨金が与えられ、スポンサーや所属企業からも多額のお金が入ってくる。各国によって事情は異なるが、公務員の仕事や、家、車、年金が与えられる国もあるというから驚く。生きていくために必要な物質的報酬が得られるのなら、たとえば貧困にあえぐ地域の一家族から出たアスリートは、一生分の生活費を手にすることができるならばたとえこの身がボロボロになろうともドーピングに手を染めることを厭わないだろう。その行為を責めることはおそらく誰にもできやしない。また、長らくの人種差別を克服する場として、つまり白人と黒人が同じ条件で競い合うという舞台への彼らの強い思いは、私たち日本人には逆立ちしても共感できるわけがない。そしてその裏側にはオリンピックという大会を仕掛ける人たちがいて、利権に群がる多数のスポンサーがいる。利権をめぐって権力を発動すれば、試合開始時間の変更さえも可能にしてしまうという現実が横たわっている。

サマランチ氏が国際オリンピック委員会会長に就任した当時のオリンピックは、現在ほどの注目度はなく、むしろ先細りしていく気配が漂っていた。遡ってみれば、モスクワでの西側諸国のボイコットに始まり、その報復としてロサンゼルスのボイコットがあり、2度の大戦による3度の中止があったのだから、クーベルタンが「平和の祭典」としての理念を掲げた当初の思惑とは大きく外れ、大会そのものの意義が失われつつあった。こうした現状を踏まえてサマランチ氏は大会を継続、発展させていくべく改革に乗り出したというわけである。

氏が行ったことは大きく二つあり、大手企業のスポンサーを募って資金を集め、アマチュアリズムを排してプロ選手の参加を可能にした。すなわち商業主義化へと舵を切ったのである。その甲斐あってオリンピックという大会は世界的なスポーツイベントへと成長した。言ってしまえば「もうかるイベント」になり下がったのである(古代オリンピックでは勝者を「美にして善なるもの」とし、物質的報酬は一切なくオリーブの冠だけを与えた)。お金が集まって、だからそこには当然のように権力が発生して、それに群がる人や企業がいて、という構図は特にオリンピックに限ったことではないからとくになんとも思わない。ああ、そういうもんなだよな、と思う。ただね、見過ごせないのは、奴らがスポーツに付随する健全なイメージを隠れ蓑にしているところが気に食わない。ここはキチンと批判しとかないことにはボクの腹の虫はおさまらない。

オリンピックの運営サイド全般に言えることだが(もちろんメディアも)、明らかに彼らはトップアスリートしか目に入っていない。しかもトップアスリートの中でもトップの選手だけ。一人の成功者が誕生する裏側で何人もの敗者が埋もれていったかには目もくれないし、スポーツにあこがれる子どもたちの目にどのように映るのかという視点を持とうという気もない。これは大学にきて学生たちとスポーツの話をする中でふと気付いたことだが、彼女たちのほとんどはテレビに映るトップアスリートは今私がいる場所とは全く異なる世界の住人であると無意識的に思い込んでいる。イチローやシェーン・ウイリアムスのここがすごいという話をしてもあまりピンとこない。彼は彼、彼女は彼女、私は私。いやいや、彼らの取り組み方や考え方なんかからは学ぶべきところはあるでー、といってもあまり反応はない。おそらくこれは本人たちの未熟さというよりもメディアから絶え間なく流されるスポーツ報道で刷り込まれた結果だろう。

スポーツを商業としてしか考えない人たちは、トップアスリートの中でもトップの選手がいかに突出した人物であるかを挙って書きたて、映しまくることで多額の利益を上げている。そして一部の「トップ・トップアスリート」はその期待に応えるべく、または多額の報酬を得ようと、権力に寄り添ったり、ドーピングに手を染めたりしている。現在のオリンピックでは運営サイドと「トップ・トップアスリート」の共犯関係が成り立っている。この共犯関係は、何もオリンピックだけでなく現在のメジャースポーツでは当然のように築かれていると思われる。それがなんだか気持ち悪い。勝ったもんがそんなにえらい?コメントもろくに言えない選手をそんなに持ち上げてどうすんのよ?なんて不満が心の中に芽生えてくるのは僕だけ?

なんてえらそうに宣う自分はじゃあ現役のときはどうだったのかというと、全然なっていませんでした。試合中なのにガッツポーズはするし、記者に囲まれてもロクなコメントを口にすることもできず(記者の質問の仕方が悪いときもあったが)、そのことには反省しつつも次第に囲みもなくなって、現役をフェードアウトってな感じだった。思い返せば返すほど自らの無知さに項垂れるしかなく、「申し訳ありませんでした」と頭を垂れるしかないのだけれど、それでもというかだからこそ、これでもかというくらいに強調しておきたい衝動に駆られるのである。スポーツという世界の構造分析をきちんとしておかないとって思う。やっぱりね、きちんと学ぶべきことは学んでおかないと大変なんだよ、とくに引退後はさ。使い捨てにされないようにしとかないといけないよ、なんて思うわけです、先輩として。差し出がましいかもしれないけれど。

講義で話した内容を記しておこうと思いつつ、途中から違う方向に話が進んでしまったけれどこれもご愛嬌。いつものことなので許して下され。さて、今日の夜は楽しげな食事&酒が待っている。それまでじっくり本でも読もう。来週の講義を視野に入れながらがっつり読みまっせ。