平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「らしく」振舞うなんて、できるものか。

昨年の10月以来、久しぶりに書いてみる。いつもなら「なぜ書けなかったのか」「なぜ書かなかったのか」についての言い訳から始めるところだが、とにもかくにもようやく書く気になったということで、そこんところは割愛したい。

大学教員として働き始めて来月で丸6年になる。時が経つのは早いものだ。本当に早い。早すぎるほどに、早い。この間に僕がしてきたことといえば、研究と教育と酒とランニングと結婚くらいなものである。こう書くといろいろとあったように思えてくるけれど、30半ばから後半にかけての人生としては人並みだと思われる。というか「人並み」って一体なんやねんという話で、こうした言葉遣いをしている時点でオレという人間は「人並み」でダサイということだ。

「らしさ」を追求するという所作によって、その人が持っているそもそものパーソナリティを打ち消してしまうように、追いかければ追いかけるほどに遠ざかってしまうものというのがあって、そのひとつが「人並み」ではないかと思う。ヒトヨヒトヨニヒトミゴロ・・・じゃなく「人並み」というものは、現状のままでは立ち行かないかもしれないというちょっとした焦りから志向されるものでもあり、自信や意欲の減退、漠然とした恐れもまたそれを後押しする。

あるいは、理想的な自分を高く見積もり過ぎることにより、今の自分がみすぼらしく見えてしまう。そこから焦りが生じ、せめて「人並み」にあらねばならないと、様々な場面での言動がどんどん縮んでゆく。行動範囲が狭まり、言葉の自主規制を無意識的に行なうようになって、はたと気づけばそこにいるのは項垂れたなんとも情けない自分である。うぐぐ。

「人並み」って厄介だ。普通でいるというのもまた鬱陶しい。普通ってなんやねん。標準ってなんやねん。こんな風にちょいと怒ってみたことで気がついたのは、人並みとは世間の方から自分のことを考える、ってことだ。大方が描いているイメージに沿うことが「人並み」であって、つまり相対的で、絶えず自分以外の他人の影響を受け続けることに他ならない。というのは、やや決めつけすぎかもしれないが。

そういえば僕はずっと「らしくない」と言われ続けて、しかもそう言われることにちょっとした悦を感じていたのだった。もちろん今もそうだ。中心をズラして脇へゆく。共同体の周縁へと知らず知らずのうちに足を運ぼうとする。あっ、そうか、「あわい」へと飛び出そうとしているのか。そんな大層なこと、できんのかいな、オレ。そういえば、いつか読んだ本で人類学における「トリックスター」を格好いいと思ったっけ。

と、そんなええもんでは決してないけれど、同調圧力に対する感受性が年々高まりつつあることだけは確かであって、あの馴れ馴れしさには辟易として仕方がないのである。

「らしく」あるための努力をするくらいなら「出る杭」でいる方がよっぽどマシだ。と、公然に意気がっておかないとすぐにめげてしまう僕なのである。という自らを鼓舞する意味でのブログ再開宣言、改めてどうぞよろしく。