平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

原点回帰。

すっかり放置したままのこのブログ。久しぶりに覗いてみるとさまざまな広告があちらこちらに張り付いていて、読むに耐えない状態でぽつねんとあった。前回の更新が2016年5月だから2年以上も放ったらかしだったわけで、まるで蜘蛛の巣が張り、埃が積もり積もったしばらく誰も住んでいない空き家で感じるような、いやな淀みが感じられる。

このブログは2007年からだが、ホームページで書き始めたのが2002年だからネットで書き始めて今年で17年目になる。17年目、か。そら不惑も超えるってもんである。

ホームページやネットで書き始めたことがきっかけで、今ではさまざまな媒体から執筆依頼をいただくようになった。お陰様で2014年には単著も上梓することができた。これも偏にここでこうして書き続けてきたがゆえのことだ。

いや、違った。僕が書いたテクストを読んでオモシロがってくれる人達がいたからだ。根気よく発信し続けてよかった、と思うのは今から振り返るからであって、まさに書き続けている最中はそんなことお構いなしにただただ楽しくて、キーボードを叩いていただけだった。いつかさまざまなメディアで書きたいという思いは抱いてはいたけれど、明確に目標を掲げていたわけでもなく、それへの情熱もさほどなかった。

「好きこそ物の上手なれ」。幼いころからよく耳にした言葉だが、40歳を超えた今になってつくづくそうだよなあとその意味が実感できる。ごくわずかな読者に向けて駄文をしたためるというプロセスにおいて、おそらく僕の文体はでき上がっていった。文章に関する勉強はほとんどしていない。「書き方」をマニュアル的に叩き込んだのではなく、とにかく感じたこと考えたことをひとつひとつ言葉にしていっただけで、あとはとにかく読んだ。オモシロくて美しい文章をひたすら読んで、ところどころ真似をしながらとにかく書き続けた。

その痕跡がこうしてまだ残っている。読み返せばその稚拙さに赤面するばかりだが、自分が通過してきた道すがらに想いや考えの断片が散らばっているから、やはり懐かしさが込み上げてくる。右往左往しながら自由気ままに言葉でレールを引き続けた思考の痕跡。あらためて読み返してみて、残していてよかったと思う。

個人でホームページやブログに書く。ここには第三者が介入しない。編集者の目も出版社の意向も介在しない。とにかく自由だ。独りよがりになるリスクはあるが、それでもやはり伸び伸びと言葉を紡ぐことができる。ほとんど誰も見向きもしないテーマで書いても構わないし、愚痴っぽい内容でも誰も咎めやしない。ただ、この縛りのなさに胡座をかくと途端に読者は離れてゆく。この意味でやや不自由さはあるものの、この落とし穴さえ自覚していれば、やはり伸びやかに書くことができる。

なるだけ縛りを外して伸び伸び書くというのは、自分と向き合うことでもある。漠然としたかたちでしか認識できていなかった己の考えに、書くことを通じて、また書いたものを読み返すことによって気づくことができる。「自分の中にいる他者」が生まれるという、曰く言い難いあの悦びは、自分という人格を形成するのに一役買っていたのだろうとあらためて思う。

僕が書くという行為に魅了されたのは、やはりホームページでありブログだ。書き手としての原点が、ここにある。思いのままに、考えにしたがって、ただただ書き続けること。そうしてようやく今にたどり着いたわけで、そんな大切な場を放ったらかしにしておくのは忍びない。

まずはこの場を掃除しよう。そしてまた書いていこう。ありがたいことにここんところ忙しい日々が続いているので、以前のように頻繁に更新はできないだろうが、気の向くときに、気の向くままに書くことにする。

いつのまにか雨も止んでいる。

帰り支度を済ませて、生まれたばかりの娘が待つ家に帰ろう。