平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

『小田嶋隆のコラム道』に触発される。

日が長くなった。19時になろうとしているのに外はまだ明るい。数時間前に突然の雷雨に見舞われたここ神戸市北区。窓から吹き込む風はひんやりとしている。ゼミに講義に打ち合わせにと、忙しく動き回った今日もまたいつものように暮れようとしている。

唐突に書き始めたのは、いや、書きたくなったのはある本を手にとったからである。その本とは、ミシマ社から発刊された 『小田嶋隆のコラム道』 。この本はね、オモシロすぎるのです。ブログやら何やらでずっと書くことに向き合ってきた身としては思い当たる節がたくさんあって、「わかるわかる!」と心の中で呟きながら読んでいるのでした。

中でも「書き出し」についての氏の言い分には目から鱗がボロボロ状態。特に「書き出しにおいて最も重要な要素は、書き出すというアクションであって、書き出した結果ではない」とはっきり言い切ってくれたおかげで僕としてはとても楽になった。そうなんだよね、とにかく書きはじめることが何を差し置いても大切なのだ。そうだったじゃないか。そうでなけりゃボクがここで10年も書き続けられるわけがないのだ。うん、大切なことを思い出させてもらった。

これを書こう、あれを書こうと頭を悩ますのはほどほどにして、まずは書き始めてみる。そうすれば勝手に筆ならぬ指が動き出す。いつのまにかリズム感が生まれてきて、次から次へと言葉が連なりはじめるとこっちのもの。書くつもりのなかったあんなことやこんなことが次々に表現され、事後的に「オレってこんなことを考えていたのか」という感懐を抱く。これが書くことから引き出せるもっとも大きな愉悦なのだとボクは思っているのだが。

ただそうは言ってもなかなか難しいところもあって、ある意味で自分というものを突き放さないとこうした恍惚の状態に入りにくい。理性というか、規範意識が強すぎるとかなり手前でブレーキを踏んでしまうので、当たり障りの無い無機質な文章が生まれることになる。誰も傷つけないかわりに誰も心が動かない文章。「世界平和を願う」的なオチで強引にまとめられた文章。こういった文章は読む者の気力と意欲をちょっとずつ蝕んでゆくから厄介だ。ちびちびすり減っていき、いつのまにやらそこにポツンと置き去りになっているような、そんな心境になる。

のは、もしかしてボクだけかもしれないけれど。

実はですね、今ボクは本を書いていて、そちらにエネルギーをとられているからブログで書けないのは仕方ないかなと、自分の中で片付けてしまってた。ブログにまで手が回らないことへの言い訳が仕事以外にもあることに安住していたというか。それにツイッターもあるし、まったく発言してないわけではないから、そんなに慌てなくてもいいのでは。そう自分に言い聞かせていたのだった。

でもそんな風に考えてたらダメなのだ、おそらくは。「書く」という営みを本質から考えたらこれらのことは辻褄合わせのただの言いわけに過ぎなくて、これを正当化してしまったらおそらくいつか書けなくなる日がやってくるに違いない。なぜだかわからないけれどこれには確信を持って断言できる。書けなくなる。そう、自分への鼓舞、いや呪詛になってしまうのかな。

まあそうなったらそうなったで、そんときはまた別の表現方法をみつければいいのかもわからないが、今はやっぱりそんな風に考えることはできず、だからやっぱり「書く」ということにしがみつきたい。

書く、か。

とにかく。こうして揺れる心情そのままに書くことだってありうるわけで、現にこれまでそうしてきたわけだから、あまり肩をいからさずにテクテクと歩くようにして書いていければと思う。

って、また決意表明かいな。このオチから離れられるようになったときがスランプ脱出だな、きっと。