平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

考えてからではなく考えるためにボクは書く。

三連休の最終日はラグビー愛好会の練習と動感感覚研究会で静かに過ぎようとしている。窓の外を眺めると怪しげな雲が広がってきてなんだか不穏である。なので、そろそろ帰る支度をしようかと思ったが、久しぶりにブログを書く気になったのでこうしてPCに向かっているところである。天気の神様、頼むからこれを書き終えて家に帰るまで雨を降らすのをおやめください。


カレンダーを眺めていたらあと1週間で秋学期が始まるということに気がついた。本当に、時間が経つのはあっという間である。あと4ヶ月足らずで2012年も終わるし、37歳も半分が過ぎようとしている。この間いったいボクは何をしてきたのだろうと振り返ってみれば、それなりにあれこれとしてはいるが、それらほとんどが記憶に残っていない。いや、記憶に残っていないというのは正確な表現ではないな。なんだかとても印象が薄いのだ。朧げに覚えてはいるのだがインパクトが弱いというか。イメージとして残ってはいるのだが言葉にはできないというか。そんな感じである。


これには思い当たる節がある。こんな風にして自らの経験の印象が薄くなったのはおそらくブログを書かなくなったことに原因がある。もっと正確に言うと、ブログを書こうとする意欲が衰えたことに起因しているのではないかと思っている。体験や経験を言葉に置き換えようとする意欲が弱まったことで、記憶の一つ一つを象れないままに放置することが多くなり、輪郭がぼやけた断片的なものばかりになってしまった。


思い返せばブログで書く、書かねばならないという使命にかられていたときは、日常生活の隅々にまでアンテナを張り巡らせていた。「うん?」と感じる違和感をみつけてはそれについて考えるために文章を書いた。「考えてから」ではなく「考えるために」、とにかく書く。そう決めることによって、当初は違和感にしか過ぎなかったものが言葉を重ねるうちにストンと自分の中に入ってくる。記憶の中の所定の位置に明確な言葉を伴ってきちんと収まってくれる。それらが積み重なってボクという人間の記憶はおそらく形成されていたのだろうと思う。


こうした一連の記憶形成プロセスが、書かなくなったことによって、書くことへの意欲が薄れたことによって、うまく機能しなくなった。整理整頓どころか、曖昧なイメージのまま次々と記憶の貯蔵庫に放り込まれるのだから、散逸するのも当然である。散逸していることすらも散逸しているような状態が、おそらく現在のボクではないかと思うのである。


いつからかコンテンツばかりを気にするようになったのも、書くという営みに対するスタンスが微妙に変わっていったこの影響ではないかと思う。書く前に頭の中で整理して、それこそオチまでイメージしてから書き始めようとしている自分に気がついたときは「ハッ」となって落ち込んだ。ブログに限らずこうした書き方は絶対にするまい。予定調和なんぞくそくらえだと決め込んできたにもかかわらず、その罠にまんまと嵌っている自分をすぐには信じることができなかった。だからといって、そう気づいたところですぐに元に戻れるはずもなく、もやもやしてさらに書くことから遠ざかってしまっていた。


うん、ださいぞ、オレ。


目一杯に頑張ってこれらの経緯を前向きに解釈するとすれば、書くということを日常生活における大切な営みとして過ごしてきた人間が、書くことから遠ざかればどんな風な心境になるか。それが身を以てわかったということだ。でももういやです、あんな経験は。


てなわけで、また今日から「書く」を日常生活における大事な営みに据えることにします。この数ヶ月はこうして何度もブログ再開宣言をしてきたけれど、おそらく今回は本気です(たぶん)。


てなことを書いているあいだに雨がしとしとと降り出しました。
どうやらボクのささやかな(でもとても自分勝手な)お願いは聞き届けられなかったよう。さあ、帰ろう。