平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「空気」への更なる考察(昨日の続き)。

昨日のブログを読み返す。言葉のつながりが悪くどこか思考が覚束ない様がありありと表出している文章だなと感じた。ふと練習量が足りないままに試合に臨んだときのもたつき具合を思い出し、ああそうかと得心する。やはり文章を書くことにもラグビーと同じで日々の鍛練の継続が必要なのだ。ある新聞社の方も「とにかく書き続けることが大切だ」と、デスクに上がった途端に書かなくなる社員が多い現状を嘆いておられた。「書く」も「動く」のひとつ、つまり身体運動ということだ。

現役晩年には試合前に般若心経を唱えていたと昨日のブログに書いた。試合を迎えるにあたり迫りくる恐れや不安をいなすためにお経を唱えていたというわけだ。当初はあくまでも「いなす」ためであり、それに頼り切るつもりなど毛頭なかったが、人間とは弱いものである。というよりもボクという人間が弱いということで、いつのまにか「お経を唱えること」なしに試合を迎えられなくなった。まるで「お経を唱えること」そのものに恐れや不安を掻き消す特別な効力があるかのようにいつからか思い込んでしまったのだ。

確かにこの思い込みはボクの気持ちを和らげてくれた。高なる鼓動が幾分か落ち着き、ざわつく心には安寧がもたらされて、どの試合にもほぼベストなコンディションで臨むことができた。気分を昂ぶらせて戦闘態勢を整えつつも、内なる心は穏やかな状態。このような状態で臨んだ試合はたとえようのない充実感を得ることができた。試合直後はほとんど記憶に残っていないのだが、徐々に時間が経つにつれて場面場面のプレーが形づくられていくという感覚を、試合後の余韻として心ゆくまで味わうのがボクの楽しみでもあった。

ただこの思い込みには負の側面がある。「お経を唱えること」で心には安寧がもたらされるが、「お経を唱えられなかったこと」が更なる不安を呼び起こすのだ。何らかの理由で試合前の儀式である「お経を唱えること」を行えなかった場合、そこには得も言われぬざわめきが心を襲う。「大丈夫、大丈夫」と自分自身をなだめすかそうにもそう容易に拭い去ることはできない。心のある一部分にべったりと張り付いて離れてはくれなくなる。

たとえば試合中にイージーなミスをしてしまったとする(ノックオンとか)。一度なら偶然だと意識に留まることはないが、立て続けに失敗したときには「そういえば今日はお経を唱えていなかった」という言葉が脳裏をかすめる。こうなると試合の勝利やパフォーマンスの最大化に100%の集中力を傾けることは難しくなる。なぜならそこからは自らの心に張り付いた憂いとの闘いを余儀なくされるからである。まずはこの憂いを吹っ切らなければ相手との闘いに集中できるわけもなく、ハイパフォーマンスは望むべくもない。すべてのプレーに無意識的なネガティブ思考が張り巡らさせるのである。

あまりに頼りすぎることはよくないと薄々は感じていたものの、それでも当時のボクはまだまだ弱い心の持ち主だったから(もちろんまだ今もそうだが)、散々考えながらも辿り着いたのは「お経を唱えること」への固執だった。何が何でもお経を唱える時間と空間を確保しようと躍起になり、どうしても確保できないときはこの試合に限っては仕方がないと思い込むように努めた。(思い込めるはずもないのに思い込もうとしたのは今から思えば「思考停止」でしかない)。

力関係が明確で自チームの優位が予めわかっている試合などはこれでよいのかもしれないが、実力が拮抗する相手と優勝を決める試合となれば「仕方がない」などと悠長なことは言ってられない。何が何でもその試合で最高のパフォーマンスを発揮すべく準備を整えなければならない。どのような情況に置かれようともいつもと同じようにハイパフォーマンスを発揮することが求められる。この要求に応える自分でいるためにはどうすればよいのかと考えたとき、はたと立ち止まってしまった。

「どのような状況に置かれようとも・・・」ということは、つまりお経を唱えられなくともいつもと同じようにプレーしなければならないということだ。それはすなわち「なにかに頼り切る心の働き」そのものを本質的に掘り下げて考えなければならないことを意味する。そうして考えていくと、「お経を唱えること」がよくないのではなく、それを絶対化することにより心の安寧を求めていた自らの弱さが思考を停止させていた事実に辿り着いたのである。

てなことは当然のごとく当時のボクはよくわかっていなかった。朧気ながらに考えてはいたもののここまで明確な論理として理解できていなかった。もしあのときにここまでじっくりと考えることができていたならとてつもなく凄いプレーヤーになってたんと違うかなあ、なんて淡い夢を抱いたりもするが、これもまた今だから言えることでもある(少しくらい夢を見させてください・笑)。

「感情移入を前提とした臨在感的把握」は言い換えれば「信ずる心」ということになる。対象がモノやコトに限らず、たとえ人間であったとしても、その語義においてはそう言い切ることができるのではないかと思う。目に見えないものの存在を浮かび上がらせるという意味では、この「感情移入を前提とした臨在感的把握」は人間の営みにおいてなくてはならない振る舞いのようにも思えてくる。科学なるものへの盲信が甚だしい昨今の社会ではつとに求められている振る舞いだろうとも感じられる。

だからといってそれを絶対化することだけはしてはならない。絶対化することでそこには人為的な思惑が付与され、最低限度の科学的な裏付けも為されていないような「空気」がつくられる。その大気圧が排他的に働けば暴力的な行為につながっていく。少し話は変わるが、各メディアが吹聴する健康やダイエットに関する情報などはまさにその典型ではないだろうか。「健康」を維持するにはそれなりの努力が必要だという「空気」を作り出して不安を煽り、絶対化した自社製品を売りつける。「その商品がなければ生きていけない」という気持ちにさせるべく、営業スマイルで耳障りのよい言葉を並び立てる様にはホントに辟易としてしまう。まさしくここにも「空気」の仕業がある。

では「空気」に飲み込まれないためにはどうすればよいのだろう。これについてはもう少し本を読み込んでみて、自らの経験と照らし合わせてじっくりと考えてから書くことにする。その場の雰囲気を台無しにするという意味でボクたちは「水を差す」という言葉を使っている。山本氏は、「空気」に対抗しうるものとしての「水=通常性」の研究も行っているので、その箇所を再読してから書きます。