平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

山本七平著『「空気」の研究』を読んで。

そういえば「とにかく書く」と決めていたのだった。昼食をすませたあと坂を登りながらそのことがふと思い出されてハッとなった。まず書きたいことがあってそれを言葉に置き換えていく、というよりも、まず言葉を連ねることで書きたかったことがかたち作られるというか。コンテンツもオチも気にすることなくまずは書き始めていたあの頃をとても懐かしく感じる。あの頃のようにまた書いていこう。そう、ブログに向かう心持ちの話である。ブログというよりも「書くこと」そのものへの心構えと言った方が正確かもしれない。

というわけで今日は書く。とにかく書こうとキーボードを叩き始めたのであった。

ここんところ本を読むスピードが上がってきた。欲するままに活字を読み続けても頭に入ってくる。ほとんどは読み終えた途端に忘れてしまうのだけれど、似たような話を誰かとしている時や、それと似たような内容の本を読んだ時にはムクムクと記憶貯蔵庫から湧き出してくる。本質のところでつながっていれば同じような記憶はいくらでも辿ることができるということだろう。言葉の上っ面を覚えるだけでは限界がある。意味は二の次にしてとにかく暗記することももちろん大切なのだけれど、それだけでは不十分だ。その言葉にどのような意味があるのかに少しでも想像を働かせるだけで、「それってあれのこと?」「それならこれもそうだだろう」と連鎖的に記憶がよみがえってくる。オレってこんなにものごとを知ってたっけっという気持ちになり自信の水かさが増す。

というわけでここんところ手当たり次第に乱読している。前期の講義が終わったことで精神的な余裕が生まれたのかもしれない。山本七平著『「空気」の研究 』は2度目の通読。かつて「KY(空気を読めない)」という言葉が流行したが、その「空気」に関しての研究論文である。「感情移入を前提とする臨在感的把握の絶対化」が空気を作り出す。その空気に抗うことは一筋縄ではいかない。かつての日本が太平洋戦争に突入したのもこの「空気」の仕業である。ならばこの「空気」の正体を明確にすれば同じような失敗を避けることができるのではないか。いや、この「空気」の正体をきちんと把握しておかなければまた同じ過ちを繰り返すことになるだろう。著者は前書きでそう述べている。うん、まさしくその通りだ。

これがね、とてつもなく面白いのです。おそらく日本人ならばこの「空気」の存在は認めざるを得ないのではないかと思う。なぜならあの時代にあれほどまで「KY」という言葉が流行したからだ。「空気」という存在を実感していなければあれほどまでに流行することはなかったはずだ。普段の生活の中で私たちが感じているなにかがあって、言葉が宛がわれることでそのなにかは表象する。「KY」はまさしくそのなにかにピンポイントでヒットした。

この「空気」を醸成するのは先ほども書いたけれど「感情移入を前提とする臨在感的把握の絶対化」。「鰯の頭も信心から」というように信ずる者はたとえ鰯の頭であっても崇めるようになるというが、「感情移入を前提とする臨在感的把握の絶対化」はまさしくこのことである。鰯の頭は鰯の頭でしかないにもかかわらず、その背後に有り難い御利益が潜んでいると信ずる者にとっては崇める対象となる。つまり、鰯の頭には有り難いご利益が臨在していると理解し、それには思いこみとも呼べる感情移入が前提とされ、だから周りがなにを言おうとも鰯の頭を絶対化する。やがてその鰯の頭に自らの生活や生き方が支配されていく。本来的に人間には備わっているこのような心の癖が「空気」なるものを醸成する。

やがて鰯の頭を拝む人たちは個々の深奥にかすかに芽生えつつある不安を解消すべく、ご利益があるからお前らも手を合わせろとお節介を焼き始める。たとえばその場に居合わせた人の大半が鰯の頭を拝む人たちで占められれば、その場には独特の「空気」が作られて少数派の人は為すすべがなくなる。この人たちは、「手を合わさずにはいられなかった」「断れる雰囲気ではなかった」などという言い回しでおそらくその場のことを回想するに違いない。その言い回しこそがまさに「空気」が作られていることの証左である。ちなみに青木雄二の『ナニワ金融道』を読んだことのある人ならヒビワレックスのセミナー風景を想像してみればよい。あのような状況におかれたならほとんど誰しもがその場の「空気」に流されてしまうだろう。灰原ほど冷静でいられるのなら話は別だが。

閑話休題

でもね、この「空気」を自分自身の身近な問題に置き換えながら掘り下げていくと、やがては「宗教」へと続いていくような気がするのだ。信仰心へと通ずるというかなんというか。ある特定の宗教、宗派を信ずるという意味での信仰心というよりは、人は何かを信じなければ生きられないというより大きな意味での「信ずる心」ということである。身近なところではジンクスなんかもあてはまるだろう。何かを信じようとする心性は、ゆき過ぎるとその信ずるモノの背後には何かが臨在するという勘違いを生じさせる。

思い起こせば現役時代も晩年は、試合当日、ホテルを出発する前には必ず般若心経を唱えていた。高まる緊張を抑えるためでもあり、恐怖にのまれないためのボクにとっての一つの儀式だった。わずか10分ほどの時間だったが目を閉じて声を出していると心が落ちき、ボクにとってこの時間はなくてはならないものになっていた。

ただ試合はいつも同じ会場で同じ時間に始まるわけではない。地方で行われる試合もあるし、そうなるといつもと勝手が違ってくる。宿舎を出発する時間も朝食やブランチをとる時間も変更を余儀なくされる。試合会場によっては2人部屋になることもあり、そうすると試合前にひとりで過ごす時間が作れないことだってでてくる。

そのときにふと感じたのは心は脆いなあってことだった。「般若心経を唱える時間がないからこれほどまでに緊張と恐怖で心が揺らいでしまっている」という思いが芽生えた時にそう感じたのであった。普段ならばひとりの時間が確保され、その時間で心を落ち着かせてきた。それは心のどこかで般若心経には心を落ち着かせる効能があると信じ込み(つまりこれは感情移入した臨在感的把握の絶対化だ)、自らでこのような「空気」を作り上げて心を落ち着かせてきたということである。だがいざその時間がなくなれば、鎮静作用のある(と思い込んでいる)般若心経を唱えられないことがさらなる不安と恐れを生じさせることをボクは経験した。

「信ずる心」にはこうした一面がついてくる。というよりもボクたちの心にはこのような癖があるということだと思う。何かに頼れば楽になるが、その頼ったモノや人を絶対化してしまえばやがてそのモノや人に支配されることになる。心を落ち着かせるために唱え始めたお経も、それなしではいられないほどに絶対化してしまうと心は波打つばかりになる。

この本はただ「空気」のことを知るためにあるというよりも、「空気」の本質について考えることによりたくさん気付きに出会うことができる。本当にオモシロイ。このような文章がおそらく本質的な意味における研究論文なのだろうとボクは思う。多分これから何度も読み返すはずだ。「空気」、「信ずる心」、それに「感情移入を前提とする臨在感的把握の絶対化」についてしばらく考え続けることにしよう。