平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

読書から得る2つの悦び。

一頃に比べてたくさんの本を読むようになった。現役時代、ラグビー選手にしてはよく読む方だったので、それに胡座をかいて余裕をかましていた。「読書家だよな、オレって」という自己満足的感懐に浸って気持ちよくなっていた。だがしかし、研究者となってからはこの「ラグビー選手にしては」というエクスキューズがきかなくなり(当然であるが)、読書が仕事になったわけである。そうなってからもう5年が経とうとしているのであるが、今さらながらに気づいたのは圧倒的に読書量が足りない、ということである。


「本を読まねば!」といつぞやから焦りを感じて手当り次第に読み始めたのだが、焦燥感に駆られて読んだこともあって内容がほとんど頭に残らない。そのことに苛立ちながらも、それでも「読まんと話にならんわな」と自らを鼓舞してページを捲ったけれど情況は変わらず。読めども読めども空転する。積み上がる本の高さと反比例して自らにあるわずかばかりの知性的なものが目減りしてゆくようなそんな気分。自己嫌悪。「もしかしてこの職業に向いていない?」という子どもじみた言い訳すら頭に浮かぶほどであった。


本は楽しむもの。自らが抱く興味や関心をもとに未開拓の世界を切り開くために読むものである。スポーツ関連の書籍や雑誌を読むときはまさにそう。あらかじめ自覚できている興味や関心を携えて未知の世界に突入していく。「へぇ〜」の連発である。知らなかったことがわかる悦びは何とも言えずたまらない。


それとは別の楽しみもある。「乱読」は興味や関心そのものを醸成する。もともと興味や関心など皆無だったが、友人が薦めるからという理由で手に取り読み進めていく中で到達するオモシロさ。ここには予想を遥かに超えた、ではなく、予想を抱くことすらできなかった世界が広がっている。これまで生きてきた自分の価値観とは連続性のない世界。これは脳天から足先まで稲妻が突き抜けたような感じさえ覚える。


ようするに、これまでの自分と地続きであるか、そうでないかの違いである。「地図を片手にある程度の目星をつけて探検する」のと、「地図すらない世界をただ先達に従って探検する」のとの違い。読書がもたらす悦びは大きくこの2つに分けられるとボクは考えている。そして大切なのが両者のバランスをとることだ。自らの枠を広げること、それはボクにとっては「研究分野の理解を深めること」である。それと並行して、自らの外にあるものに意識を向けること、つまり「自我をいったん括弧に入れて無垢な心であらゆる場に踏み出すこと」を行ったり来たりすることが肝である。


おそらくボクは後者、つまり「地図すらない世界をただ先達に従って探検する」ことに比重を置き過ぎたのだと思う。自らが立つ場所を確認しなければ路頭に迷うのは当然だ。しかも「先達だと思しき人」に後から勝手に着いて行くのだから質が悪い。ここは「先達」ではなく「師匠」だろう。そんな基本的なことを失念するくらいに探検し続けたのだから迷子になるのは致し方ない。


この辺をちょっと整理した上でまた読んでいくことにする。実のところ今日は最近読んだある本の書評を書こうと思ったのだが、意図したところと反してこのような内容になってしまった。まあそんな日もある。それについてはいずれ、というか近日中に書くことにして、今から原稿書きに専念することにしよう。秋めいたカラッとした気候のもとで気分よく書ければよいのだけれど。その前にまずはひとっ走りしてもいいが。