平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

嫉妬されるのはモテてるってことで。

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身体への意識は、ひとたび不調になった途端に急激に高まる。筋肉痛とか発熱による節々のぎこちなさとか頭痛とかが襲っているときは、いやが上にも身体に縛り付けられる。これはもしかすると、あまりに放置されたが故の、身体からの嫉妬なのかもしれない。もっと興味を持ってよ、というね。

もし、体調が特に不調でもないときに自らの身体を意識する契機が瞑想なのだとしたら、定期的に胡座をかいて目を瞑って心を落ち着けておけば、身体に嫉妬されたりはしないってことになる。心身の状態を安定させる、身体を大切にするっていうのはこういうことなのかもしれないなあ。
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数日前のツイッターでボクはこんなことをつぶやいていた。今日はこの「身体からの嫉妬」について、もうちょっと踏み込んで書いてみようと思う。

身体というのは考えれば考えるほどに不思議である。自分のもの、というか自分そのもののはずなのに、うまく制御できなかったり、ほとんど同じようなサイクルで生活しているにもかかわらず体調が良くなったり悪くなったりする。心臓とか胃とか肝臓とかがこの身体の中にあって、それぞれが活発に働いてくれているからこそボクたちは生きていられるわけだが、自分自身のそれらを直に見ることはできない。いや、他人のものを見る機会にもおそらくそんなには恵まれないだろう。医学の発展によって心臓や胃や肝臓という専門用語がふだんの生活の中で使われるようになって久しいが、ボクたちは見たこともない自分の一部である臓器についてあたかも周知の事実のようにして語っている。休肝日は肝臓を休ませる日という意味である。もの言わぬはずの肝臓を休ませるのはその機能がよく周知されていることの裏返しであり、「そこにあるはず」というだけでこれだけ手厚く扱っている事実は、よくよく考えてみれば滑稽な話だ。

もの言わぬ臓器としての肝臓がそうなように、ボクたちはまったくもって健康な時は自らの身体を意識することはほぼない。たとえば胃腸は、調子が悪くなって痛みが生じたり、グルグルと活動を活発にした時にその存在感を露呈する。空腹を感じた時や食べ過ぎた時にも存在感を増すが、それは身体からの欲求という解釈であって、胃腸そのものへの意識ではない。

この身体の中に胃腸があるのだな、胃腸以外の内臓もこの中にはたっぷりあるんだよな、と自らの腹部あたりにまなざしを向けていると、いやな重苦しさはあれども(今、体調が悪いからね)無性に愛おしくなってくる。おお、オレの身体よ、と思う。

そんな身体だけど、普段はてんで放ったらかしである。「便りのないことが無事の証拠」ではないが、そもそも健康とはどういう状態かをじっくり考えてみたらわかる通り、意識の上で何も感じていない状態がまさしく健康である。痛くも痒くもなく、ほぼこちらの思惑通りに手足が動く状態が健康といっても差し支えないだろう。だから身体は、その存在感を四方八方にまき散らすことなく、ただそっと傍らにあるという表現がぴったりくる。

「へえそこにいたのか、あんたは」と、まるでいなかったように扱われることに身体は慣れている。でも慣れているとはいっても時にはかまってほしいのが人情というものだろう(身体に人情はあるのか?)。

「ちょっと言っていいですか、あんたがあくせく働いて、おいしいもんを食べて酒も飲んで、そうして日がな楽しく生活できてるのもね、もとはと言えばあっしがいるからなんですよ、そこんとこ忘れてもらっちゃあ、困るなあ」と、ときどき嫉妬心を抱く。それが風邪などの体調不良として自覚される。

放ったらかしにしてたら、してた分だけ仲直りするのにも時間がかかるから、まるで恋人みたいなものだ。そんなときは素直に「すんませんでした、以後は気をつけます」とおとなしく機嫌が治まるのを待つしかないのである。言い訳すればするだけこじれるのは目に見えているから、もちろんしない。この辺もまったく恋人と一緒である。

てなことを妄想するくらいにしんどい今回のボクの体調不良だが、なぜこうなったのかを思い返してみると、身体をわかったつもりになっていたことに起因するんだろうなと漠然と思っている。だが、断定はしない。断定してしまえば、また「あんたは全然わかっていない」とまた強烈な症状が襲うような気がするからである。今後ともこの嫉妬深い自らの身体とは、じっくりと腰を据えて付き合っていく所存である。

なんのこっちゃ。