平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

磨き上げる、研ぎすます。

こんなことも知らずによくも今まで“のほほん”と過ごしてこられたな、と思うことがたまにある。真実なることを知ってしまったが故に、これまでの自分が恥ずかしく感じられる。あのときはよくも偉そうに断定できたものだなと、全身からいやーな汗が出てきてがっくりする。胃のあたりにぽっかり空洞ができたような、なんとも言いようのない焦燥が襲って、項垂れる。

端的に言えば「落ち込む」ってことなのだけれど、でもこの落ち込みは決してネガティブな性質のものではなく、むしろ歓迎すべきひとつの経験だと思う。なぜなら「今まで気付いていなかったことに気付くことができた」ということで、つまりは「無知の知」の経験だからである。実感としては、これまで築いてきた自信が崩れ落ちるかのような無力感が付随することもある。でもこの無力感をしっかり抱え込んでまた次の一歩を踏み出すからこそ、人というのは本質的に変化していくのである(「成長」には“右肩上がり”のニュアンスが伴うので「本質的な変化」とした)。

それを知ってしまったことで、これまでの常識を書き換えなければうまく辻褄が合わなくなる知識や知恵。まさにそれらを目の当たりにした瞬間は、言葉に詰まり、ためらってしまう。常識を書き換えなければならないことは薄々わかってはいるのだが、ただ同時にその作業にはそれなりの知的負荷がかかることもわかっているから、そこでは葛藤が起きる。「はい、そうですか」と簡単に書き換えられるわけがないのだ。過去にそれなりの成功体験を持つのであればなおさらそうなる。その成功体験の範疇で解釈してしまうこと、それはまさに「既知への還元」であり、その態度で接する限り私たちは決して「他者」に出会うことはできない。

「初めて目にし、耳にしたこと」に触れた、まさにその時に瞬間的に下されるべき判断は身体的でないといけない。その瞬間に、もしも頭で理論的に落とし込もうと躍起になっている自分がいたとすれば、その振る舞い方がすでに恣意的である。つまり身体が「否」と判断したとみて差し支えない。逆に、見たり、聴いたり、読んだり、触れたりしたその瞬間に、身体中の細胞が一斉に活動を活発にするような感覚を覚えれば、それがすでに答えなのである。なぜそれに打ち震えたのかの論理的な理由はあとから理論づけられる。まず身体的な判断があって、その次に論理的な理由がくる。

突き詰めれば身体を鍛えることの目的とは、瞬間的な判断を下さなければならない日常のあらゆる場面で適切に振る舞える身体になるってことだ。闇雲に鍛えるのではなく、磨き上げる、研ぎすます、といった感じだろうか。実践的には、数値上でただ負荷をかけるのではなく、身体の内側から発せられる様々な「ノイズ」をひとつひとつ解釈していく、という仕方になるだろう。そうすることで、結果的には「他者」とも出会うことができ、自らの無知を突きつけられた時でもむやみやたらに落ち込まなくてもよくなる身体になるのだと思う。ただ、この「ノイズ」を解釈する仕方にたどり着くまでには、端的に負荷をかけ続ける過程も必要だろうとは思う。「いかにして力を抜くか」を考えるためには、目一杯に力を込めた経験が必要なように。

やや独りよがりな文章に終始したことをお許し願いたい。今日はそんな気分だったのである。書いたことによってモヤモヤしていたことの幾分かは整理が着いたので、そろそろ昼ご飯を食べよう。その後は『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか?』の続きを読むことにする。