平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

新年の挨拶と『チェーザレ』の感想。

みなさま、あけましておめでとうございます。食っちゃ飲んでダラダラ過ごしていたらあっという間に年が明けて、さらに食っちゃ飲んでしてたらあっという間に仕事が始まりました。今日は朝から研究室で明日からの講義の準備に勤しんでおりました。まだまだ正月気分が抜けきっておらずに身体がボーっとしてたりしますが、やらなきゃならんことはやらなきゃならんということで、少しずつ気持ちを引き締めていこうと思っとります。

それにしてもここ最近はあまり読書熱が上がらず、活字を読めども読めどもその内容が頭の中にとどまってはくれない。こんな調子ではいけない、しっかりと読んでもっと勉強しなければと、半ば無理やり読んだりもしてたし、読書熱が上がり切っていないにもかかわらず見切り発車的に「上がってきた」などと自らを鼓舞するつもりでブログに書いたりツイッターでつぶやいたりもしてたけど、せっかく読んだことがスルスルと身体のどこかにある隙間から抜けていくような、そんな感じがどうにも拭えなくて困っている。ちょっと焦ってもいる。漫画ではあるけれど『チェーザレ』もそんな感じの中で読んだものだから、受けた感動を表現することがどうにも困難に感じる。うーん、なんだろう。でもまあとにかく書いてみるとするか。

確かに『チェーザレ』はとてもとてもおもしろかった。世界史に疎いボクでも古代ローマ帝国からルネッサンスまでの大まかな流れが理解できたし、キリスト教がもたらしたものが今日の私たちの社会にどれほどの影響を与えているのかについての想像をかきたてられもした。どの時代においても人間がぶつかる壁は似たようなものだなと、煩悩や欲望から逃れられはしないのだなと、普段ボクが考え続けている課題と重ね合わせて安堵感が得られたりもした。権力を求め、権力に群がる人たちはいつの時代にも存在している。そして、その裏側には自分のいる「世界」に和平をもたらすために尽力している人たちが存在しているのだ。

歴史的な理解が深まったのとは別にもう一つ考えさせられたのは、人間にとって宗教とは何かということ。宗教というよりも信仰ということなのだが、これまで邪教として退けてきたキリスト教が正教になったことを当時の人たちはどのように受け入れたのであろうか。これまで信じていた神を棄てて新しい神を受け入れるってことがそう簡単にできるとは、ボクには到底思えないのだ。だから、始めからそこまで信仰心が篤くなかったか、それとも表面上は信仰心を表しているだけかのどちらかだと訝ってみたくもなる。それか宗教そのものが当時の市民にとってそれほど絶対的なものではなかったか。いやそんなことがあるはずもないか。いずれにしても『チェーザレ』を読んでいると、少なくとも当時は宗教は立身出世のために利用される側面を持っていたことは確かと言えそうだ(うん?現在もそういった部分は残されている、か)。

なんて新年早々に小難しく考えるのはまあこのへんにしておこう。でも気がついたことはすぐにこうして書いていった方がいいよなあと改めて思った(とこれまでにも書いてきたことだけれど)。こうして書き進めていけば、さっきの「読めども読めどもその内容が頭の中にはとどまってくれない」という実感は薄れていき、「なんだ、結構、オレって憶えてるやんか!」と思えるから誠に不思議である。どこから出てくるのかはわからないが、とにかく言葉が湧いてくることにわずかながらの実感が得られる。うれしい限りだ。

というわけで、今年もまたカリカリと書いていきたいと思います。
どうぞ2011年もよろしくお頼もうします。