平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

引き分け、感動物語、使い捨て。

連休が明けて本格的に2011年が始まった。まだ身体がピリッとしないのは正月気分が抜けていないからかもしれないけれど、だとすればなんてボクは怠惰なのだろうとつくづくいやになる。年が明けてからもう10日が経過している。にもかかわらずあれこれに対する集中力に欠けるのはいかがなものか。もしかすると高校、大学、トップリーグと各カテゴリーでのラグビーの試合を見過ぎてそのおもしろさの中に未だ溺れているだけなのかもしれない。

いや、たぶんただの休みボケだな、うん。
というわけでラグビーの事について今日は少々書いておくことにします。

まずは高校ラグビー。東福岡と桐蔭学園との決勝戦は手に汗を握る展開を見せるも引き分けで両校優勝という劇的な幕引き。決着をつけさせてあげたかった気持ちも無きにしも非ずだが、あれだけのハイパフォーマンスをしながらも優劣がつかずに引き分けたことは確実に選手たちの今後によい影響をもたらすだろうと思う。パフォーマンスが記号的な意味に矮小化されることもないし、手持ちの価値観では片付かない想いを抱え続けることは精神的な成長にもつながっていくことだろう。少なくとも両校フィフティーンはこの試合のことをずっと語り続けるはず。「あんときこうしてれば…」という後悔は無限に抽出できる。それについて語り合う時の楽しさを想像すれば、なんとうらやましいことか。

なのでせっかく引き分けたのだからわざわざ優劣を決めることもないだろうというのが僕の意見である。両校の選手たちにはとにかくいい試合をありがとうと言っておきたい。

大学ラグビーは見るには見たがどうもあまり気乗りがせず。帝京大vs東海大の試合は見たけれど、なぜだかおもしろ味に欠けた。その理由はなんとなくわかっているようでわかっていないようで、よくわからない(結局のところよくわからない)。迫力のある試合だったことは認めるけれど、肝心なところにまで響いてこない印象を受けたのであった。だから述べずにおく。

トップリーグはホームズスタジアムで行われた神戸製鋼コベルコスティーラーズの試合を見た。年末25日と一昨日の9日の試合。今シーズンが始まる時に今年の楽しみの一つとして、かつてのチームメイトである大畑大介の現役最後の年をじっくり見守ることを挙げた。テレビだけれどシーズン序盤から中盤にかけての試合はほぼ見た。満身創痍の身体ながらも一瞬のスピードや加速に関してはいまだ輝きを放っている様子に、わずかな嫉妬心を抱きながらもその身体能力の高さには純粋に感動を覚えていた。やっぱりすごい。しかしながら最後の最後であのような悲劇を目の当たりにすることになろうとは夢にも思わなかった。タンカに乗せられて退場してゆく姿を見つめながら、なんとも言いようのない物悲しさが胸中に渦巻いていた。

アスリートに期待されるものとは一体なんなのだろうと考えてしまう。それは自らの拙い経験を顧みつつ、彼の胸中を察しようとする試みでもあるのだが、自らの限界に挑戦するその姿に人は感動するというけれど身体が壊れるまでがんばり続けることをひとつの美談としてこれほどまで大々的に語り継いでよいものだろうか。テレビで高校ラグビーの試合を見ていても、ケガを押して出場している選手を精神的に強い選手だと賞賛するコメントをしばしば耳にする。でもこれって明らかにおかしい話だと思う。強行出場という決断を下す選手を指して精神的に強いとは一概には言えないだろう。むしろこのケガではチームに迷惑がかかるから敢えて出場を辞退するという決断を下す方が、精神的な負荷は明らかに大きい。高校ラグビーでは負ければ引退となる以上、最後まで仲間と一緒にプレーしたいと100人いれば100人がそう思うだろう。最後の舞台になるかもしれない場所から自らの意志で身を引くことは、高校生にとっては至難の決断である。でもその強さについてはコメントされない。歯を食いしばって頑張る姿しかコメントされない。

少し話が逸れたから元に戻す。
アスリートに期待されるものについて考えているのだった。

ボクはやはり「無事是名馬」がアスリートに求められているものだと思う。誤解を恐れずに言ってしまえば、ケガを押して出場し続ける姿に人は手放しで感動などしない。するはずがない。痛々しい姿を見れば誰だって無理をせずに休んで欲しいと願うだろうからだ。ひたむきにがんばる姿に応援しょうという気持ちにはなっても、本当の意味で心を動かされたりはしない。本当のファンならば、傷だらけの身体に鞭打つ姿を見たいなんて望まない。

メディアが作りだした感動物語に乗せられて「応援」が「感動」に置き換えられてしまっている。そんな風にボクは感じる。感動とか奇跡とか、仰々しい言葉の多用はもうやめにして欲しいと思う。

ボク自身もケガで現役を退いた。後遺症だって残っている。それを恨めしいと思ったことは一度もないが、ただボク自身の競技への取り組みがいかなるものであったのかについては時間を掛けて把握しておきたいと思っている。それがスポーツ科学万能主義に批判的な眼差しを投げかけることでもあり、身体論について考えることでもある。そうして考え続けて出した答えだけが、後に続く者に伝えるべき言葉だろうと思っている。まだまだその言葉を持ちえているとは言い難いが、それでも今の時点で言い切れることがひとつある。それは「アスリートは使い捨てではない」ということだ。