平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「負けず嫌いな性格」身体観測第110回目。

 今は「負けの美学」についてあれこれ考えている僕でも、その昔は大の負けず嫌いであった。小学生のころは、家事に勤しむ母に頼み込み1度限りの条件で許された将棋も負ければ泣きながら「もう1回」と駄々をこねる始末だったというし、親戚とのトランプでも負ければ露骨に悔しそうな顔を浮かべ、勝つまでやめようとはしなかったのだと言う。負けるのが嫌でもそこまで往生際が悪かったとは知らなかった。


 それがいつからか競争することが億劫になった。優劣をはっきりさせることにどれだけの意味があるのか。そんな考えが漠然と胸中に去来したのは大学生になってからである。今だから言えるが、当時は試合を終えた夜にみんなで集まって酒を飲むことが恒例になっていた。その日の試合のある場面を巡って意見を戦わせたり、先輩と後輩が普段はできない話に花を咲かせたり、ときにはとことん朝まで語り合うことだってあった。

 そのすべてを覚えているわけではないが、わずかに残る記憶を辿れば話題の中心は勝ち負けではなかったと思う。勝った日は楽観的に語り、負けた日はやや深刻に、その日の試合を総括する。悔しさが滲み出ることはあっても露骨に出さないあの心地よさが、負けず嫌いな性格を解してくれたのかもしれない。

 将棋は最後まで勝敗を決することをよしとしない。ほぼ勝敗が決したタイミングで負けを認めて「投了」となる。なぜ最後まで指さずに負けを認めるのか、幼き頃はその精神を理解できなかったが、今となれば少しわかる気がする。勝敗よりも勝負が決した瞬間を共有することに重きを置いたのだ。おそらくは勝者と敗者を分かつのではなくつなげるために。勝負が生み出す悔恨や傲慢を中和するために。

 負けず嫌いな性格は生まれつきであっても勝負意識は熟成されていく。たぶんそういうことだ。

<10/12/28毎日新聞掲載分>