平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

スポーツには勝敗がつきもの。だが。

ここんところのブログを読み返してみれば、負けを受け入れるために書いたブログのすぐあとに、一部昇格という勝利を喜ぶブログを書いている。その滑稽さに思わず笑ってしまった。勝てばうれしい、負ければ悔しい。勝った時のうれしさにはその流れにただ身を委ねているだけでよいが、負けた時の悔しさにはどうにかこうにか言葉をあてがわないと噛みくだくことができない。その歯ごたえのある情動が次なるステージにつながる道となる。

ここまで書いて、勝敗のみを論じることがどれだけ不格好なものかを思い知る。そうなのだ。僕は「一部昇格」を喜んでいるだけではなくて、「一部昇格を果たした学生たち」に引きずられて歓喜の声を上げているのである。おそらく学生たちは達成感という手応えを感じていて、その手応えが人としての厚みになるだろう予感に、よろこんでいる。4年間の集大成となった試合に出場が叶わなかった学生たちの胸中には二律背反的心情が渦巻いていたはずで、おそらくは苦しいに違いなかったはずだけれど、いつの日かこの苦しさが深みのある優しさとして他人に向けられるであろう予感に、よろこんでいる。残された3回生以下は置き土産としての来期1部リーグでの戦いに少なからず不安を抱いているだろうが、その不安との戦いがいずれ彼女たち自身の芯の強さになるだろう予感に、よろこんでいる。

こういった類の予感が渦巻いていることについはしゃいでしまったのが一つ前のブログである。勝利を喜ぶというよりも、学生たちに去来するであろうあれこれについての数々の予感が、否応なくテンションを高ぶらせた。今日という日にこのテンションのままに書いておかなければという思いに突き動かされた。だから、つい数日前に「負ける経験の方がなんやらかんやら…」と書いたことを忘れて素直に入替戦の勝利を喜んだのである。

でもこれでいいのだ。負ければ悔しいし、勝てばうれしい。
勝敗というものはただそういうものだからだ。

ただ逆からいえばただそれだけのものでしかない。過ぎ去ってしまうことで虚しさを生むのがスポーツにおける勝敗であって、だからこそまた試合を求めて歩みだすことができる。試合翌日に学生から「勝ったということも引退したということも、まだ実感が湧きません」という内容のメールが送られてきた。「うんうん、そういうもんなんだよな」と僕自身の経験と重なる思いを発見して、また新たな予感が生まれた。この学生はおそらく勝敗とは何かという問いを無意識的に考え始めることだろう。いや、もう始めている。

勝つこともあれば負けることもある。スポーツでも人生でも、たぶん負けることの経験の方が多い。勝ちを積み重ね続けるチームや選手もいるが、それはごく一部の限られた人間だ。そしてスポーツには勝ち負けがつきものである。勝ち負けを問わないスポーツはスポーツではないだろう(僕としては勝ち負けのないスポーツというのがあればそれはそれで面白そうではあるけれど、おそらく大半の人はそうは思わないだろう)。何を書いているのかよくわからなくなってきたが、とにかく今の僕自身が勝敗を論じる場合にはこうしたどっちつかずの文章しか書けない。すまない。というか謝っても仕方がないか。

話は変わるが、NHKでドラマ化される影響を受けて今はせっせと『坂の上の雲』を読んでいる。現在読み進みているところは、バルチック艦隊朝鮮半島に向けて航行を開始したあたり。旅順攻略における乃木軍の頑迷さにイライラしているところである。こうした書物を読んでいると、僕がいかに物事を知らずにこれまで生きてきたのかが突きつけられる。たくさんの戦死者がいるから僕たちは今平和に暮らすことができている。あまりに当たり前なことだからこそこうして何度も何度も言葉にして確認しておかなければならないと思う。要塞化した旅順に特攻していかざるを得なかった兵士たちの無念はいかほどのものだったのかは、とてもじゃないが想像できるはずもない。

自分はあまりにものを知らなさすぎる。この事実を突き付けられるのはなかなか受け入れ難いけれど、わずかばかりの努力で受け入れてしまえばそこからの見晴らしはとてもよい。そこからしか始まらないステージがある。勝敗がすべてだと信じてプレーしてきた子どもたちが、勝敗を超えたところにあるものに気付いたときに、すべてがはじまるのだと思う。そしてそばにいる大人は、勝敗を超越したものの存在をそれとなく示唆するのでなければならないのだろうと思う。

なんだか支離滅裂な文章になってしまった。いつものことながら申し訳ない。
と、さらりと謝っておいて帰ることにする。失礼。