平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

ダラダラとしながら最近読んだ本を顧みる。

すっかりと更新が滞ってしまったが何も今に始まったことでもないので、断りもなくさらりと書いていきたいと思う(という風に断っているのだけれど)。

鼻炎続きで少しばかり体調が芳しくなかったこともあって、今日はゆったりと1日を過ごした。本日は奈良県立図書情報館で内田先生の記念講演があり、是非とも足を運びたく考えていたのだけれど、ここんところの体調の悪さに断念してしまう。「ああ残念」と落胆しつつも、昨日の甲南麻雀例会には喜び勇んで駆けつけた次第であるから体調の悪さもたかが知れている程度なわけで、何ともワガママな僕なのであった。

というわけで今日はほぼ1日をダラダラと過ごし、夜は一人鍋でたっぷりの野菜を食したおかげで、鼻水の出具合が治まりつつある。カラダを休めることができたし、外食続きで偏りがちな栄養を補えたという意味で身体が回復したという部分もあるだろうけど、それよりも精神的にリラックスできたことの方が今の僕にとっては大きなことのように感じる。緊張と緩和のバランスが崩れるとひたすらに「意欲」が枯渇してゆくような気がするのは僕だけだろうか。この「意欲」は、具体的な何かに向けられるような性質のものではなくて、ただ漠然と生きることに能動的に関われるかどうかを左右するものというかなんというか。積極性、アクティビティ、エネルギー、精気などと言い換えても差し支えないようなもの。

腹の奥の奥でぐつぐつと煮立っているような何ものかがあって、たぶんその何ものかが、他人との関わりが関わり合っている日常生活に「意欲」をもたらしている。「意欲」の元となる、腹の奥で煮立っているその何ものかは、薪をくべたりして定期的に加減を調整しないと空焚き状態となる。世知辛い社会のあれこれと少しばかり距離をおき、じっくりと向き合う必要があるのだ、その何ものかと。身体は正直だから、この作業を怠るとたちまち不具合が生じてくる。心が荒立つのか、カラダに変調を来すのかには個人差はあっても、とにかく身体のアライメントが狂い出す。今日という一日は、身体のアラインメントを整えるための一日だったのだろうと、今、この時間になってそう感じるのである。

というか、ここまで気ままに筆を滑らせた内容は、ダラダラと過ごしてしまった一日を肯定的に解釈したいがために考えたことなのだが、なかなかいい出来映えであると自画自賛している。これで今日という日が僕にとって素晴らしい一日となったわけである。言葉というのは本当に有り難いもので、ひとたびこうして物語が編まれると途端に救われた気分になる。

さて、ここからは話題を一気に変えて、最近読んだ本や読み進めつある本についてあれこれと書いておくことにしよう。

この前にも書いたけれど、今の読書生活で中心的に読み進めているのが『坂の上の雲』である。日常的な仕事量に圧されて読むペースが遅くなりつつあるのだが、すっかりとハマっている。今月の29日からNHKで始まるドラマも楽しみにしている。読めば読むほど、これまで生きてきた中で「明治以後」とか「日露戦争」とかいう言葉を口にした自分がとてもとても恥ずかしく思えてくる。その実態を何にも知らないままに口にしていた自分に赤面する他なく、そして自分という人間はものごとをこんなにも知らなかったのかという紛れもない事実に肩を落とし、何にも知らないままにこの歳まで生きてこれたことの奇跡に冷や汗が出る。

「圧倒的な知性」というものがどのくらい圧倒的であるかを測ることはできないけれど、とにかく圧倒的であるということは察することができる。その奥行きというものに眩暈がするほどの感動を覚えてページをめくっているというのが、今の心境である。

僕にとっての読書という行為は同時並行的であって、「これも読みながらあれも読む」という具合である。まだ読んでいる途中の本があるけれど面白そうだからこの本も読み始めてみよう、ということに割と平気なので、いろいろな本に手をつけることを厭わない浮気性である。だから『坂の上の雲』を読み進めながら他の本にもちょくちょく手を出していて、ついこの前に発売された内田先生の『日本辺境論』(新潮新書)は既に読み終わって2度目に突入している。おそらくそのほとんどを僕は十分に理解できていないので、その内容について語るのはとてもためらわれるのだけれど、「読み手により汲み出しうる叡智は無限にある」という師から受け継いだ教えにしたがってあれこれと述べてみることにすれば、読みながらに感じたのは「オレって典型的な日本人やなあ」と得心することしきりで、ここんところ考えに耽っていたことのいくつかがスッと腑に落ちた。

考えに耽っていたことの一つは、大学教員としてまだ経験の浅い僕が学生に対していったい何を話すことができるのかということ。文献を読み耽って、取ってつけたような話をしたところで実感のこもった内容を講義できるはずもなく、講義を終えた後に襲ってくる得体の知れない無力感をどう受けとめればいいのかに実のところ悩み続けていたのだが、それはつまり、解決するソリューションを自分の外部に求める辺境的な思考の負の側面であることがわかったのである。

自分の中にあるいろいろな経験やそれに基づく考えが仮初めで、もっと優れた考え方が外部にあるという思いに囚われると意識が外に向く。どんなことでも吸収してやろうという姿勢は好ましいが、それが行き過ぎると自信の喪失に繋がってしまう。根拠とすべきものまでをも外部に求めれば自分への信頼が揺らぐことは明白で、自己の存在がどこか宙に浮いたような感覚に襲われるのも無理はない。

たぶん、こんな状態になっていたのだと思う。
あくまでもたぶんだけど。

だからもっと自分自身の中を掘ってみることにする。
そうやって意識を切り替えたことでちょっと楽になったのである。

なので読み終わるや否やまた1頁に戻ってしまった。
内田先生の本は体感的にきく。エキサイティングに過ぎるのである。

それともう一つ読みながら強く感じたことがあって、それはスポーツの世界に蔓延している言説についてである。たとえばラグビー界では世界に追いつけ追い越せと画策し、代表強化を目論んでいるが、その語り口はまさに辺境人的な思考であり、やれニュージーランドではどうだ、オーストラリアではこうする、いやいや北半球的にはこうだよ、などという言説にその徴候がある。外国人のプレーヤーに「助っ人」という言葉を宛がうこともそうだ。その点からいうと、あらゆるスポーツの日本代表は諸外国にキャッチアップすべく強化策に取り組んでいる。まるでどの国もそのように強化しているのだと思い込みながら。

このあたりをちょっと踏み込んで考えていけば面白いだろうと思う。強化策がスポーツ科学に偏り過ぎていることも含めて、今後は考えていきたいテーマである。

他には『噛みきれない想い』(鷲田清一、角川学芸出版)も読んだ。鷲田先生の言葉は心の琴線に触れる。心がポカポカ暖かくなる。また読みたくなる。流れるような言葉の連なりやリズムに僕はすっかりと惚れている。選ばれた言葉の語感がたまらなく愛おしい。その愛おしさを何と表現すればよいのかには思わず頭を抱えるが、たとえるならば心身の疼きが落ち着くような感じである。

それにしても読書の旅は果てしない。1つわかれば3つのわからないことが生まれるような気がする。いや、3つどころか10も20もわからなくなる。それを繰り返すわけだから、読めば読むほどわからなくなってトホホとなるのだが、トホホとならなければわからないことが世の中にはあって、それがわかった瞬間が何ものにも変えがたいほどに心地よい。だから少々わからないことが増えようが何も問題はない。というか、たぶん世の中にはわからないことばかりが揺らめいているのだ、きっと。その世の中を生きていかなければならないわけだから、わからないことだらけのカオス状態に生きる覚悟をすべきなのだ。

そうしたカオス状態の中を生きていくためには、わずかばかりの確信が必要となる。信念の元になる確信というか。つまり、全身全霊を込めて「これはこうなんだ」と言い切れること。これだけは譲れないというもの。たぶん僕はこれを見つけるために果てしない読書の旅を続けているのだろうと思う。

さて、また1週間が始まる。
世間は休日だけれどうちの大学は明日は講義日。
がんばっていこう。


日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

  • 作者: 内田 樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/11
  • メディア: 新書

 

噛みきれない想い

噛みきれない想い

  • 作者: 鷲田 清一
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2009/07/10
  • メディア: 単行本