平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

身体をモニターするってこと。

一通り成績をつけ終えてホッと一息ついています。今期からWEB上で成績を提出することになったので、出席と点数をせっせとパソコンに打ち込んでいたのでした。出席率とか一目でわかるし確かに便利になったはずなんだけれど、どこか味気ない感じがついて回るのは否めません。ボクという人間はとことんアナログなんでしょうね。便利になり過ぎることに不安を感じるボクは、電子化の流れに対してはたぶんこれからもずっとブツブツ言い続けるでしょう。講義でもパワーポイントは使わないって決めてるのは、生身の人間からしか伝えられないことってあるよね、それをちょっと大事にしてみようやないかと思い立ってのこと。話し方も講義内容も拙いのは百も承知だけれど、それでも挑戦し続けないことにはできないわけですよね。話をすることを鍛練する。ラグビーと一緒です。だから「使えない」のではなくて「使わない」のです。そこんところ、お見知りおきいただければ幸いかと存じます(って誰への言い訳をしてるんやろか)。

前回の身体観測では準備運動の必要性について書いてみた。現役時代のあるときにコンビニへと向かう道すがら、点滅を始めた信号を渡ろうとして走り出したときのぎこちなさと、渡り終えてからの妙な違和感からちょっと考察してみたわけだが、意外にもたくさんの人たちからの反響があってびっくりした。かつてのチームメイトからメールがあって「僕もそう思ってた」という感想をもらい、こんな身近にも感じていたヤツがいたのかとさらに驚いた。

日本では体育の授業の中で準備運動の必要性が説かれており、何の疑いもなく必要なものだと思い込んでいる人がほとんどの中で、その必要性を疑うことはなかなか困難だろうと思う。でも、ちょっとだけ頭を使って考えてみればその必要性を疑うことは、そんなにも難しくないことに思い当たるはずなのだ。

スポーツをするにしろしないにしろ、人間としての理想の身体とは「周囲からの刺激に対して瞬時に動ける身体」である。通りすがりにいきなりナイフで切りかかってきたときに、「ちょっと待って、ストレッチするから」とは言えない。当たり前ですね。その理想の身体を目指すにはいついかなるときにもすぐに動けるような「準備」を整えておかなければならない。でもこの「準備」は準備運動をすることではなく、「特別な準備をせずとも動ける身体にしておく」ということになる。だから、ちょっとややこしいのだけれど“準備をしないこと”が「準備」なのだ。つまり、準備運動に頼らないようにすることが、意識の置きどころとなる。

このロジックはわかっていただけるかと思う。

だからボクは受け持つ実技『ラグビー』では準備体操をしない。敢えてしないでおいて、「あと10分後に試合を始める」とだけ伝え、その様子を眺めている。すると学生たちは当然のことながらきちんと準備体操をしたりはしない。数人でパスを始めたり、来たる試合に向けてサインプレーを試したりしている。中には、ポケットに手を突っ込んだまま何もしようとしない学生もいるが、そういった学生にはボールをパスしたりして「とにかく動けよー」と発破をかける。決してストレッチを促したりはしない。たとえば寒さで身体が固まりこわばっていたとすれば、そのこわばりを自覚して動ける範囲で動けばよいし、徐々に身体が温まってきたなと思えばギアチェンジをして走るペースを上げればよい。ふくらはぎに違和感を覚えるのであればアキレス腱を伸ばすあのストレッチを自らの意志ですればよい。

つまり、自分の身体がどういった状態なのかをモニターすればいいのである。動けそうならその程度に応じて動けばいいし、まだ動けなさそうならばそろりと動き出せばよい。そうして自分の身体をモニターする習慣をつける方が、準備運動でインスタントに動ける身体にするよりもよほど教育的な効果があると思われる。今やストレッチの種類もたくさんあって、それを裏付ける科学的なデータも豊富にあるわけだから、頭は簡単に思い込んでしまいがち。でもそれは違う。確固たる科学的なデータに頼るってことは、ある意味においては思考停止ともいえる。生ものである身体を、その本質を損なうことなく実践につなげるためには確固たる根拠がないまま常に揺らぎ続けることが求められる。ある日はこれでうまくいったからといって、次の日に同じように行ってもうまくいかないことなんてざらにある。あーでもないこーでもないと手探りし続けない限り身体の本質はつかめないのだ。

あーでもないこーでもないと手探りすること、自分の身体をモニターすること。それはつまり、トレーナーやコーチからのアドバイスはあくまでもアドバイスにとどめておいて、自らの身体が発するノイズを受け取るべく感覚を研ぎ澄ますということです。そのノイズをシグナルに読み替える能力こそが大切なのに、準備運動はその能力を涵養する機会を奪ってしまう可能性が大いにある。ようは準備運動とのつき合い方が大切なのですね。準備運動は絶対的に必要であり、それをしないとうまくパフォーマンスできない、下手すればケガをしてしまう。こういう思い込みは、身体能力そのものを損なってしまうということです。

だからといって全くしないでいいわけではありません。当然です。身体をモニターしながら違和感を覚えた部位をほぐすべく自らの意志でストレッチをするというのは必要です。それこそが「身体をモニターする」ってことですから。人間というものは、本来は無茶な動きをしないようにできている。これ以上動けばケガをするなと感じれば無意識的にブレーキがかかるようにできているとボクは思います。だから身体の潜在能力が発揮されるような環境にいれば準備運動などいらない。のびのびとプレーできる環境ならば本当にいらないと思う。でもそうじゃない環境がある。追い込み型指導で怒鳴り散らされながらのスポーツ環境ではそうはいかない。走らないと怒鳴られる、場合によっては暴力をふるわれる。そうなれば頭が身体の制御を振り切って限界を超えさせる。だからケガをしてしまう。こう考えると、構造的には準備体操は追い込み型指導とセットかもしれません。

なんだか走り書きでここまで書いちゃいましたが、つまりボクは準備運動をそれほど重要視していないし、どちらかといえば身体にはあまりよくないと考えているということです。もちろんこれはボク自身が自らの身体をモニターした結果ですから、違う考えの方ももちろんおられるでしょうが、ボクの身体には紛れもない実感として刻まれていることだけは念を押しておきたいと思います。