平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「準備運動って必要?」身体観測第112回目。

 近所の公園は休日になるとたくさんの子どもたちが集まる。散歩の途中などに立ち止まって遊んでいる様子を眺めたりもするのだが、子どもたちはみな公園に着くや否やすぐに駆け出していく。たとえ冬の寒い日であってもストレッチなどをせずにいきなり跳んだり跳ねたりする。

 その光景を見ていつも考えてしまうのは準備運動の必要性である。準備運動をしなければいけないと私たちは知らず知らずのうちに思い込んでいるが、果たしてそれは本当なのだろうか。

 あれは確か現役時代も晩年だった。コンビニに向かう道すがら横断歩道を渡ろうとしたとき、ちょうど信号が点滅を始めたので慌てて駆け出した。しかし身体は思うように動かず、滑らかに脚を繰り出せない。足首や膝などの関節が油の切れた歯車のようにギシギシと音を立てて軋んでいるのがわかる。ストレッチをせず急に走り始めれば身体が軋むのは仕方がないといつもは意に介さないのだが、このときは違った。横断歩道を渡り終えた瞬間にいわれのない違和感が襲ったのである。

 もしも目の前で道路に飛び出した子どもがいても今の僕では助けられないかもしれない。万引き犯を捕まえることもままならないじゃないか。緊急事態に対応できなさそうな自らに愕然としてしまった。ストレッチをしなければ走れないなんて情けないことはない。ちょうどこの頃は湯船に浸かったりエアロバイクで汗を流したり、準備運動に余念がない時期だった。

 準備運動に頼りすぎればそれなしでは動けない身体になる。やや乱暴な決めつけかもしれないが、あのときの違和感に正直になればどうしてもこう結論づけるしかない。条件付きの限定的な身体を作るのに準備運動が一役買っている。こう断言するには時期尚早かもしれないが、その可能性については常に想像を及ぼしておきたい。

<11/01/25毎日新聞掲載分>