平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

スキー指導から学ぶ、またもや言葉と感覚のお話。

おっとびっくり2月はまだ2回目の更新である。先週いっぱいスキー実習で菅平に籠っていたとはいえ、あまりに放置し過ぎである。気持ちの上ではスキー実習をもって2010年度の終わりとしていたので、これからは気持ちを切り替えて書いていこうと思う。

ひとまずは備忘録としてここんところの我が生活を振り返りながら書いていきたい。

大きなイベントとしてはやはりスキー実習のことを書かざるを得ない。本学のスキー実習に参加するのは今年で3回目となる。本学に赴任した当初はスキーをする習慣などなく、だから技術はまだまだ未熟であり、1年目、2年目は班を持たずに補助的な役割を仰せつかった。スキー指導に長けた先生のもとで学生たちとともに指導を受けつつ、転倒した学生を助けるという仕事をしながら主に指導方法を学ぶといったここ2年だった。

だが3年目ともなればそういうわけにはいかない。「そろそろ独立しなさい」という無言のプレッシャーを感じ取ったボクは覚悟を決めて、単独で班を担当することになったのである。スキーヤーとしてはてんで未熟者のボクが教えていいものだろうか。この不安は今もまだ消えてはいないが、それはここだけの話にとどめておいてもらえれば有り難い。学生たちはこのことを知らない(こうして書けばわかってしまうのだけれど)。

頭の中でシミュレーションしつつ指導内容を温めて現地に乗り込んだわけだが、思いのほかスムースに講習を進めることができたのではないかという手応えがある。だからこうして書いているわけだけど、この手応えというのは上手く教えることができたというものではなく、運動指導における本質的なものに触れることができたことへの手応えである。学生たちにスキーを教えようとしてあーでもないこーでもないと考えつつ実践しているうちに、やはり運動を指導するっていうのはこういうことなんだなと、納得してしまったのである。なんともややこしてくすまないがそういうことである。ちょっとそのあたりを書いてみたい。

スキー技術に劣るボクは通り一辺倒の、言わばマニュアル的な指導方法しか知らない。それをそのまま学生たちに伝えようとすれば、自分自身の体感が乗っかっていない言葉だけの説明に終始してしまう。指導マニュアル通りの指導は内容を丸暗記すればそれなりに格好がつくような講習ができる。おそらく指導者自身の満足感も高いのだろう。

でもね、スポーツをする、運動をするってそういうことじゃない。学生からすればとにかくこけずに滑れるようになりたいはずだ。うまくターンできた時の気持ちよさや、やや急な斜面を颯爽と滑り降りる快感を得たい。つまりは楽しく滑れるようになることがなにを差し置いても優先される。楽しく滑る。これに尽きる。

将来的に指導者として子どもたちの前に立つ学生は楽しむことよりも指導方法をきちんと学ぶことが必要だという考え方もある。その通りだと思う。自らの技術を向上させることと、きちんと指導方法を学ぶことを並列的に考えるのは必要なことだ。でもね、スキーの楽しさを知らない指導者にいったい何を教えることができるのだろうと想像してみれば、やはりまずは本人がそのスポーツを楽しんでおくことが大切だろう。「スムースにターンできた時のふわっとした気持ちよさ」を知らない指導者が、テクニカルな単語を並び立てて説明したところで聞いてる方はげんなりしてしまうのではないだろうか。

少なくともボクがそうなのだ。ハの字を作れだの、板は回さずに寄せるだの、次々と矢継ぎ早に指導されても困惑してしまう。言いたいことはわかる。指導内容は理解できる。だから理解した内容を自分なりに体感したいからしばらく滑らせて欲しいと思っても、しばらくしたらまた次の技術の指導が始まる。また矢継ぎ早に指導される。ひとつ前の技術の習得もままならないままに指導されてもようわからんし、いや正確には「わかる」んだけど「できない」状態が続いて苛立つのである。挙句の果てには「まだまだできていない」と滑りをチェックされたりするものだから、「試行錯誤するためにもっと滑らせてや」とつい言い返したくもなる。

楽しいからもっと上手くなりたいと思う。もっと格好よく滑りたいと願うから技術を習得しようと思う。スポーツって何のためにするかと言えばおもしろいからするのである。ここんところをすっ飛ばした指導はいかなるスポーツにおいても空回りする。そう思う。

要はあれこれ工夫する時間を大切にするということ。先回りしない。指導し過ぎない。最低限の安全性を確保しつつ指導を行う。その際にスキーの場合は恐怖心との葛藤が技術習得に大きな影響を及ぼすから、フィジカル的な上達に心理的な要素が絡みついてくる。技術的にはこれくらいの斜度なら滑り降りることができるとアドバイスしたところで、本人が小さくない恐怖心を抱え込んでいるなら滑り降りることはできない。本人の性格やこれまでの経験からどうしても足がすくむならば、まずはその恐怖心を取り除いてあげないことには前には進まない。

てなことをあれこれ考えつつ指導に取り組んだつもりだが、どこまでできたかどうかはよくわからない。もしかすると「平尾先生の言うてること、ようわからん」という学生もいるかもしれないけれど、そのあたりはどうぞご勘弁を。スキーが楽しいスポーツであることさえ実感してくれたならボクは満足なのです。というよりそれ以外にボクが伝えられることはありません。

スキー実習を通じて学んだこと、気づいたことはボクにとってとても大きかった。言葉と感覚の関係性については、これまで考えていた内容を再確認するには十分過ぎるほどで、つまりボクたちスポーツを行うものは感覚をつかむために言葉を手繰り寄せているということ。「スーッ」とターンするために指導者は様々なメニューを提示し、言葉巧みに説明をする。なにもその指導者が指示したやり方でなくても、何かの拍子で「スーッ」という感じをつかんでしまうことがあるわけで、それがコツをつかむってことだ。「スーッ」という感じ(=感覚)を学生たちがつかめるように言葉を駆使する。たとえ話が最たるもので、よりバラエティに富んだたとえ話を持っていれば、ある感覚に到達する道筋がたくさんあるということ。その意味ではたとえ話の豊富さがそのまま指導力の高さとなる。練習メニューもその一つだろう。

言葉と感覚。この二つの関係性についてボクは引退してからずーっと考え続けていたのだなと、改めて実感することができたのであった。そしてこれからもおそらくはずっと考え続けていくのだろうという予感とともに、自らの過去を振り返れば両者の相克のもとにここまでやってこれたのだと感じている。備忘録と言いつつスキー実習一色なブログになってしまったが、これ以外のことはまた明日以降に書くことにしよう。長期休み明けなので今日のところはこのへんで失礼。