平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「ハンガーノック」だったのかも。

今日もまた神戸マラソンのお話です。

30km
にも満たない地点で歩き始めてしまったことは昨日のブログで書いた。鉛のように固まってしまった両脚を引きずりながらかろうじて完走したことは周知の通りだが、その様子をブログで読んだある方からツイッターでアドバイスをいただいた。もしかすると「ハンガーノック」という状態になったのではないでしょうか、と。

ハンガーノックとはなにか。ちょいと調べてみたらいわゆるガス欠のことだった。個人差はあれど運動を約2時間続けて行うと血中の糖質が枯渇する。それはつまり身体を動かすエネルギーがなくなるということで、だから身体は途端に動かなくなる。ガソリンがなくなれば自動車は動かない。当たり前ですね。言わばそうしたガス欠状態に陥らないために、15kmくらいで早めに補助食品を口にするマラソンランナーは多いですよ、ということであった。

この指摘を受けて思い返してみたところ、脚が動かなくなったのは確かに2時間を超えてからだった。21kmを過ぎた辺りから「あれっ?」となり、そこからみるみるうちに身体が鉛と化した。「ぎしぎし」という感覚が両脚に広がり、特に膝から下がほとんど動かず、まるで地面から生えているかのような重さを感じた。そこから5〜6kmもいかないうちに歩いてしまった。

それともうひとつ、走り始めてから歩き始めるその地点まで水分以外は何も口にしていない。お腹も空かなかったし、水分だけで事足りるとなぜだか思い込んでいた。栄養補給をするなんてことがもともと頭にはなかった。完走をするためにマラソンについて事細かに勉強して準備をするよりも、楽しさや痛みやつらさをそのまま身体で感じたかったのであえて知識を詰め込まなかった。意図的に情報を取り込まなかったのだが、それにしても知らなさすぎたということだろう。マラソンは甘くなかった。

さらに言うと、だんだん脚が動かなくなる中で意識が薄らいでいくようななんとも言えない脱力感を感じたのも覚えている。この脱力感には何となく危機感を覚えたので、「これはアカン、完走だけはせんと格好がつかん」と強く思い直し、歩くのは完走のためなのだと自分に言い聞かせて自信満々に歩いた。これは脱水症状一歩手前、つまりはエネルギーが枯渇しかけていたのだ、おそらくは。そこから先の給水所ではスポーツドリンクを多めに飲み、沿道で差し入れてくれるチョコレートを頂戴し、途中でコンビニによってウイダーインゼリーを口にした。もしかするとこうしてエネルギーを補給したからこそ最後の5kmは走れたのかもしれない。

そして、マラソンを走り終えて今日が2日目だが、思ったほど筋肉痛がひどくなく、階段の上り下りもほとんどいつもの通りにできるようになった。これはつまり、筋肉への負荷がそれほどかかっていなかったと考えることができる。「もしかしてもっと走れたんとちゃうやろか」と思い始めてもいるが、おそらくこれはマラソンを走り終えたランナーの誰しもが考えることだろう。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ではないが、痛みや疲れが落ち着いたあとに「たられば」の話はいくらでもできる。でもね、やっぱり思ってしまうのだ、なぜならそれは悔しいからである。やっぱりボクは負けず嫌いだ。

ここまで書いてまたひとつ納得。走り終えた日の夜に、幾度となくマラソンを走った友人たちが口を揃えて「また数日したら走りたくなりますよ」と言っていた。もうこりごりだと感じていたボクはこの言葉には半信半疑だったが、今ならなんとなくわかる。こうして振り返ってうまくゆかなかった現象のひとつひとつを解決していくことによってまた走りたくなるということなのですね、きっと。だとすればボクも忠実に世のランナーたちの定型にはまりつつあるということか。つまりは走ることの魅力に取り憑かれつつあるということなのかもしれない。走り終えてすぐはあれだけもうええわと感じたのにこの心境の変化はいったいなんなのだろう、ほんとに。

それにしても指摘していただいたこのハンガーノックという状態は、見事に心当たる。ということはだ、次は栄養補給を考えて走ればあのガクンとなる失速は避けられるかもしれないということか。ふーん、そういうことなのか。へー、そうなんですね。

ということが明確にわかったとしても、この先、走るかどうかについてはまだ書かないことにしておきます。心の奥底で沸々と湧いてくるものがあるのは確かだけれど。

もし明日が晴れならちょっと走ってみるか。