平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

自らを解凍すべく。

いつのまにか新年度が始まっている。大学教員になって5年目となる2012年度はいったいどんな年になるのだろうか。ドキドキわくわく、と言いたいところだが、実はそれほど気持ちは高ぶっていない。「さて、今年もやるか」と、静かなる決意があるだけだ。経験は、きちんと積み重ねれば自信となり、落ち着きを生む。どうやら4年分はそれなりに積み重なっているようである(と勝手に思い込んでいる)。

それにしてもここ1年のあいだは筆が進まなかった。書くのをやめようかとさえ思う時期もあった。それでもやめなかったのは、このブログをやめたら何か大切なものを失ってしまうという危機感があったからだ。それが何なのかよくわからないけれど、とにかくやめてはいけないという心の声が聴こえたというわけだ。

ネットでものを書くようになってからほぼ10年、ボクの生活に「書くこと」はビルトインされていた(頻度が落ちたとしても本質的なところでは今もそうだが)。だいたい1ヶ月に10エントリーだから3日に1回ペースでブログを更新していた。大したネタがないときでも、パソコンを広げて何かしら言葉を連ねていくうちにいつのまにか話が広がっていく。すべて納得のゆく文章かと言えばそうじゃなかったけれど、たとえ理路がよれよれでスッカラカンであっても「まあ、いいか」と流せてしまうくらいの余裕があった。だからなんとなく一定のペースで続けてこられたのではないかと思う。

だがこの1年はこの「まあ、いいか」が許せなかった。正確には5回に1回くらいの割合では許せていたけど、あとの4回はぐっちゃぐちゃに丸めてポイとしてた。パソコンだから「ボタンをポチ」、か。

「なんで書けへんねやろうか」と考えることはボクのことだからもちろんあって、「毎日での連載が終わってちょっと燃え尽きてるかもな」とか、「結婚してして生活スタイルが変わったことも影響してるんかな」とかを考えてみたりしてた。3.11東日本大震災の影響があるのは言わずもがなで、その上でここに挙げたようなことを考えていたのだけれど、何のことはない。やはり3.11東日本大震災の影響がとてつもなく大きかったのだと、あれから1年が経ってようやく体感したのだった。

このことに気付かせてくれたのは『
語りきれないこと 危機と傷みの哲学鷲田清一、角川oneテーマ)と3.11を越えて― 言葉に何ができるのか』(佐野眞一和合亮一 徳間書店)という2冊の本である。この2冊を読んで改めて言葉が内包する力というものを思い知らされた。


たった1年ではまだうまく言葉にならないだろうとは思うが、それを前提に少しだけこの1年間の自分を振り返ってみようと思う。

この1年のあいだ、あまりにも言葉が軽くなってしまっている現実にボクは戸惑い、どの言葉を信じていいのかわからずに佇んでいたのだと思う。たぶん今までずーっと。震災に関する話題を口にするたびに、言葉と自分が乖離していくような居たたまれなさを感じていた。苛立ちを伴いながらもそれでもこの問題についてはきちんと言葉にしておかなくてはならないという使命感みたいなものはあったので、「きちんと話さなきゃ」とは思っていた。でも納得のゆく言葉がうまく出てこない。どうにかこうにかいざ言葉にしてみても「そんな言葉とちゃうねん」と自分の言葉との齟齬にまた苛立つ。「でもやっぱり話さないことには何も始まらん」、そんなジレンマを抱えていた。

テレビなどのメディアからの情報を丸呑みするわけにはいかないし、その情報から派生して巷間に飛び交う噂話には耳を貸すわけにはいかない。周囲に飛び交う言説の、どれが本当でどれがそうでないのかがよくわからない。頼りになる情報が極端に少ない生活環境の中で、ボクは完全にフリーズしていた。「それっぽい話」で埋め尽くされた日常を快適に過ごそうと、目に入り耳に入る情報を見たフリ聞いたフリしていたように思う。そうすることでしかうまく生活できなかった。こんなボクはまったくもって弱虫だったとしかいいようがない。うん、情けない。でもそうだった、仕方がなかった。そう思いたい。

「わかったフリをしそうになる自分を打ち消そうとして、口を噤む」という所作を選び、ただフリーズしてやり過ごすことしかできなかった。そんな己の弱さと無知に、気付いたのである。曲がりなりにも「書く者」としての自覚に欠けていた。このことに身体感覚にずしりとくるかたちでようやく気付いたのである。

語りきれないとわかりながらそれでもどうにかこうにか言葉を紡ぐこと。すべてを語りきれそうにないという理由で言葉を手放してはいけない。語りきれなさというかたちでしか語れないものがある。語りきれないことへの信頼を忘れてはいけない。

肉体性がそなわった言葉で書き、語ること。書かれたものの棒読みや既成の価値観を咀嚼・反芻することなしにただ繰り返してはいけない。淀みなく流れるまるで手触り感のない言葉は書くのも話すもの聞くのももうしんどい。現場に身を投じてそこでしか感じられないものを訥々と言葉にしてゆく。ひたすら精一杯の想像力を駆使して紡がれた言葉に、ボクたちは心を動かされる。

こういったことからしか何も始まらないということをボクはこの2冊の本から学び直した。いや、今もまだ学び直しているといったところだ。

これから上を向いていこう。凍り付いた身体を少しずつ解しながらまた書いたり考えたりしていこう。これをもって新年度を始めるにあたっての決意表明とします。