平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「あたまに追いつかれないように」。

ここんところずっと頭にこびりついて離れないのは「あたまに追いつかれないように」という感覚である。ほぼ日手帳の端っこで見つけたこの言葉によっていろんなことが腑に落ちたような気がしている。たとえばゴルフだったり、「書く」ってことだったり、それから「話す」ってこともこの感覚が大切になってくるのではなかろうかと、一気にイメージが膨らんでいる。その腑に落ちたあれこれについて、今日はちょっと書いてみたい。この腑に落ちたあれこれは、到底短い文章で説明できるような代物ではなく、いつものごとくよろよろと寄り道しながらの記述になるとは思うが、どうかそのあたりはご勘弁いただきつつ、読んでもらえればありがたい。

この言葉を見つけたのは今年から使い始めたほぼ日手帳の3月6日の頁である。そこには次のように書いてあった。


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あたまが考えてしまわないように、どんどん描いて、あっという間に描きあげた感じでした。あたまが手に追いつくと、っていうと変な表現ですけど、そうするとどうしても作為的になるので、あたまに追いつかれないように描く、という感覚で。
———皆川明さんが『思いをのせたファブリック。』の中で———

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すぐさまピンときたボクはすぐに「皆川明」という名前をネットで検索してみた。すると1967年生まれでボクより少し歳が上のファッションデザイナーということがわかった。

ふーん、そうなんだ。
(歳が近いということに最近のボクは特に敏感になっていて、たぶんこれはボクの中にある焦りと不安が生み出す、あまりよくない種類の羨望なのだろう。この種の羨望、そしてそれを生み出す不安は自分を苦しめる元になると『毎日トクしている人の秘密』で名越康文先生が書いていた。気をつけないと)

と、ささやかな心の波紋を感じながら、当たり前のようにほぼ日のサイトに訪れて、この『思いをのせたファブリック』を読んでみた。すると皆川さんは昨年のほぼ日手帳のデザインをされた人だということがわかり、このコンテンツでは作品へのコンセプトや想いについてインタビュアーに語りかけている、ということがわかった。

へー、そうなんや。
(と、細部へのこだわりを熱く語る様子にフムフムとなる)

さて、普段この人がどのような仕事をされていて、どのような作品を作っているのかよく知らないけれど、とにかくこの「あたまに追いつかれないように描く」という感覚にはピンときた。この「描く」を「打つ」や「走る」や「書く」などの他のいろんな動作に置き換えてもそれは成立するのではないか。やや突飛に過ぎるかもしれないが事実そう感じたのだから仕方がない。言葉と感覚の関係性に着目すればおそらくこれらの動作にも共通する感覚だろうと思う。

たとえばこうして書いているときに「あたまに追いつかれている」状態では一向に筆が進まない。センテンスが終わるたびに「てにをは」の間違いが気になったり、ある言葉の使い方に疑問が生まれて、それが無性に気になって辞書を開きたくなったりする。「ここまで書いたらこんな批判がくるだろうな」とか、「ここはもっとやんわりとした表現にせなアカンよな」とか、過剰な自主規制モードに入ったりもする。だからもちろん書いていてもオモシロくないし、リズム感が悪いものだから途中で書くのが嫌になってくる。で、その嫌々書いたという痕跡が文章に刻まれるので、たとえ最後まで書いたとしても納得できるレベルとはほど遠い出来になる。とほほ、となる。

しかし、「あたまに追いつかれないように」書けている時はそうではない。心地よいリズムの中で次々と言葉が浮かんでくる。そのときには妙な浮遊感があって、たとえるならばまるでどこかの誰かさんが書いているかのような実感というかなんというか。言葉を綴っているのだからあたまを使っていないわけではないことは理解しているが、あくまでも実感として、つまりは強く感じられる確かな感覚としてお腹の当たりにドンと感じられるのである。


その、まるで自分の中に住まう他人が書いているような感覚の正体は、いったい何なのだろう。二重人格?分裂してる、オレ?いや、たぶん違う。この他人様の正体はおそらく「言葉になる前の混沌としたなにか」なのだと思うのだ。普段の生活の中で感じているもろもろの集合体としてあるもの、あえて名付けるならば「心なるもの」になるだろうか。夕焼けのきれいなオレンジ色、底冷えのする研究室での寒さ、近所の串カツ屋の大将の眉毛、天気予報が晴れなのに雨に降られたときのがっかりさなど、ただ生きているだけで私たちはたくさんのことを感じていて、もっと言えば私たちの身体は生活する上であらゆるものを受信していて、この「心なるもの」に感情や思念をせっせせっせと溜め込んでいる。まるでドラえもんの四次元ポケットのような(とは言え便利な道具は出てこないけれど)、未知なる感覚の集合体を私たちは抱え込んでいる。

喜怒哀楽がまるで砂嵐のように渦巻いているその「心なるもの」は、当然のように決して言葉になるべくもないもの。だからはっきりと名指すことはできないし、そのすべてを意識化することはできない。とは言いながらも、ただぼんやりと、でも身体にはハッキリとした手応えとして感じられるものでもある。その「心なるもの」を覗き込み、だんだん熟成しつつある記憶をつまみ上げてひとつひとつ言葉にしていくという作業が「書く」ということの本質だろうと思うのである。

この「心なるもの」に正直に、またかつて自分が感じた諸々に忠実な文章を書こうとすれば、「言葉ではなく感覚を先行させること」が肝になる。言葉で考えているときはすべてあたまが先行している。これをこうして、ああして、という風にどうしても作為的になる。そうではなくて、あくまでも感覚を先行させること。明確な根拠がない中でただ心の赴く方向に歩みだしてゆく。この時の実感はまさしく「言葉がない」状態にある。もしかすると人によってはただボーッとしているだけだと感じるかもしれない。

ただ厳密に言えば言葉がないわけではない。ここにはないだけで心のどこかには確実に、ある。「今ではない過去にたっぷりと考え尽くした痕跡」としてわずかな気配を発するという仕方で存在している。ここらあたりのニュアンスというか感覚が、とてもややこしい。でも、とてもとても大切なところだ。

だからたとえば「打つ」(ゴルフですね)というのも、これと同じように考えることができる。グリップがどうだとか、左サイドで壁をつくるとか、いろんなアドバイスが言葉として頭をよぎっている間は絶えずそれを打ち消そうとしてスイングに集中できない。だから言葉を中和することでその袋小路から脱出できる。その中和の仕方におそらくほとんどのゴルファーは悩んでいる(と100を切ったあたりでウロチョロしているボクが言うのもおこがましいですが)。あたまに浮かんでは消えないアドバイスの数々が、帰ってパフォーマンスの向上に支障を来している。

さて、このへんでまとめてみる。

言葉と感覚は相容れないもの。で、両者の関係性を考える上でどのような仕方で相容れないのか。それは時間差だった。この気付きがボクにとってはとてもとても大きなことだったのでした。「言葉を手放す」「無意識に沈めておく」などいろいろな表現ができると思うけど、ボクにとっては「あたまに追いつかれないように」、つまりは両者の関係性を時間差として解釈することで、うまく言葉の呪縛を解き放つことができそうな気がしている(ひとまずはいろんな場面で実践しているところです)。

パフォーマンスが重視される現場でも当然のごとく言葉は大切で必要。ただしうまく付き合わないとパフォーマンスの向上を妨げてしまう。だから、言葉は手放したり、無意識の中にそっとしまっておいたりしないといけない。こうした関係性のもとにポランニーがいうところの『暗黙知』がつくられていく。そんなふうに今は考えています。