平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

訥々とした語りから。

言葉に救われる。それには実にいろんなかたちがある。読書をしていてひとつのフレーズが心に響く。友人がなんとはなしに放った言葉に解かれる。あるいは、かつて自らが手帳の端にヨレヨレの文字で書き付けたメモにふたたび気づく。そんなときは過去の自分に「かたじけない」という思いを抱くと同時に、失いかけていた自信がやや回復するのだ。「ええこと書いてるやん、せやけど行動がともなってないよね、まだね」というふうに。

今回は、研究ノートに書きつけていた次の言葉に救われた。

『(…)哲学の仕事は、だれもがほのかに感知しているのにまだよく掴めていない、そういう時代の構造の変化に、概念的な結晶作用を起こさせることにあるはずだ。未知の概念をそこに挿入することで、その変化にある立体的な形を付与するものであるはずだ。時代はつねにそういう発見的な言葉をもとめている。』(鷲田清一『哲学の使い方』岩波新書より)

地殻変動、というよりもすでに火山が噴火しているといってもいいであろう今日の日本社会では、「だれもがほのかに感知しているのにまだよくつかめていない」ことが充溢している。ぼんやりとはわかるものの、それがなかなか言葉にならない。話せば話すほどに言葉がもつれてゆくからもどかしい。話をしながら自分はいったいなにを表現しようとしていたのかがわからなくなるときもある。そのうち訝しい表情でこちらを見つめる相手の視線に怯み、ついに言葉にするのを控えるようになる。

気持ちがなんとなくモヤモヤするときはこの悪循環に陥っている。

もちろん理路整然と語るに越したことはない。でもこれはある意味においては簡単だが、やはり難しい。どこかで耳にしたフレーズを組み合せればわりと簡単だが、そうした使い回しの言葉に実は僕たちは辟易としている。理路整然と語る際に必要な作業は「余分を削ぎ落とすこと」である。主たる理路を際立たせるためには余分なものを削除しなければならない。これをするには、なにが必要でなにが余分なのかを判別せねばならず、それはつまりこれから話す内容を俯瞰的に見下ろし、全体像を把握する視点が必要となる。先を見渡せるから理路整然と語ることができるのだ。

先を見通した理路整然さももちろん大切ではあるのだが、ただ今の僕たちが本当に求めているのは出来合いのフレーズではない。だから理路整然さではない。めくるめく社会情勢の中で、今、この場に立つ自分がどのように感じ、考えているか。ここにはどんな声が届き、ここからどのような景色が見えているかを語る言葉である。「発見的な言葉」とは、見えづらい未来を照射する光となるような、歩みを進めるためのよすがとなるような、そんな言葉だろう。この言葉は「訥々と」語る中で、半ば予期せぬかたちで生まれるものだ。「発見的な言葉」を探り当て、そして手繰り寄せるための言葉遣いは「理路整然さ」ではなく「訥々と」だと思う。

哲学の仕事についてのこの言葉だが、多かれ少なかれ人は誰しも哲学をしていることを思えば、これは哲学者だけに向けられたものではない。人生とはなにか、生きるとはなにかについて考えたことがない人はおそらくいないはずだし、その意味でカントやニーチェなどかつての偉人を研究するだけが哲学ではない。「臨床哲学」を提唱し、それを実践されてきた鷲田清一氏の言葉は、粛々と生を営む僕たちすべてに向けられている。

この「訥々とした語り」は、内田樹先生が言うところの「情理を尽くす」にもつながる。偉い人はだいたい同じようなことを考え、述べているものだ。というこの知見もまた、先生から学んだのであった。