平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「スポーツがもたらすもの」を考える。

内田樹先生と釈徹宗先生と名越康文氏との対談および鼎談入り乱れセッション本である『現代人の祈り―呪いと祝い 』(サンガ)を読む。まだ1章を読み終えただけだがとてもオモシロい。たまらない。早く続きが読みたくて仕方がない。このあとの会議まで少し時間があるので読んでやろうかと企んでみるものの、そうは問屋が卸さない。明日に控えている講演の準備をしなければならないのである。

したがってこれから明日の講演で話す内容についての仕込みをするわけだが、講義ではなく講演なのでこれまでの自分を振り返る作業が必要となる。ボク自身に固有の経験なるものを一般化する作業というかなんというか。「ある経験」から感じたり考えたりしたこと、つまりこの身体を通じて感覚されたものを言葉に置き換えながら話の筋を決めていく。言わば一つの物語をつくるということなのだろう、きっと。だからブログにのらりくらり書く作業を通じてそれをしていこうと、こう思い立ったわけである。

講演を依頼されたのは甲南大学体育会本部。そこの委員をしているTくんがSCIXラグビークラブ出身であり、ぜひとも話をしてくださいと頼まれたのである。これは引き受けないわけにはいかない。少しばかりスケジュールに都合をつけて実現したと、こういうわけである。

体育会所属の1年生が1泊2日で行う「体育会フレッシュマンキャンプ」の初日に「スポーツがもたらすもの」というお題で話をする。場所は滋賀県大津市におの浜になるアヤハレークサイドホテル。予定表を見ると体育祭をしたりレセプションをしたりと親睦を深める内容になっている。体育会本部委員長からの挨拶文を読めば、各クラブ内だけにとどまらずクラブ同士の横のつながりも深め、これからのスポーツ活動をふくよかにしようという狙いがあるらしい。

ふーん、フレッシュマンキャンプってボクらの時もあったのかなあ。少なくともボクは参加した記憶がないのだが。どうやったっけ?(と漠然と大学時代の仲間に問うてみる)

さてと、では本題に入ろう。
お題は「スポーツがもたらすもの」。先方からはどんな話でもいいですと言われたのだけれど一応テーマがあった方が聴きやすいだろうということで、咄嗟に思いついたのがこの「スポーツがもたらすもの」。ボクがラグビーを通じて「こんなオモロイことがあってなあ」「ちょっとあれにはビックリしたわ」的な話ができればいいなあと。もちろんエエことばっかりやなくて「今から思えばあれってちょっとおかしかったんちゃうかなあ」的な話も混ぜながらに、ね。おそらくほとんどの学生は高校まで「右にならえ的」な仕方でスポーツに取り組んできたと思うので、自分で考えながら練習や試合をする楽しみを味わってほしいなあと。今回の講演そのきっかけになることを強く願っているものであります。

ラグビーがボクにもたらしたものは何か。ラグビーからボクが学んだものは何か。すでに血肉化していることがらばかりなのでいざ言葉に置き換えるとなると腰を据えて考える必要がある。なんて意気込んでみたところで言葉になるはずもないことはよくわかっているので、頭に浮かんでくることそのままにツラツラと書いてみようと思う。

ボクがラグビーを始めたのは中学1年生の終わりごろ。入学してすぐにバスケットボール部に入ったのだが、キャプテンが練習を中止してビリヤードに行ったりしてほとんどふまじめな体制に嫌気がさして退部。そのときに仲のよかった友達がほとんどラグビー部で、体験入部でもかまへんから一度練習に来たらええねんと誘われ(よくありがちな誘い文句ですね)、その流れのままに入部を決める。それが確か12月頃。半年以上も先にラグビーに携わっていたわけだから友人たちはもちろんボクよりも上手い。スクリューパスもスクリューキックもできる。そこにボクの負けず嫌いな心は火を噴いた。「くそー」っと思ったわけです。

それからどんどんラグビーというスポーツにのめり込んでいったわけです。ラグビーというスポーツがどういうものかも知らず、調べようともせず、ポジションやルールなんかもほとんど知らないままただ顧問がなかなか怖い先生だというくらいの知識だけで入部し、それこそラグビーのオモシロさとは別のところの「同級生には負けてられへんやろ」という気持ちだけでハマり込んだ。テレビやなんやらでよく有名なスポーツ選手がそのスポーツを始めたきっかけは?と訊ねられて、もっともらしく理由を述べているのを見たり聞いたりすると「ほんまかなあ」と訝しんでしまうのは、こうした経験があるから。何かを始めるときのきっかけなんてものは、ほとんどの場合は理由がないんじゃないかなあと。たぶん、もっともらしい理由を述べるスポーツ選手も、あまりに他愛もないきっかけだったので自身も忘れてしまっているんじゃないかと思う。推測だけど。

それで自慢するわけじゃないけれど、中学2年に上がってすぐに試合に出る機会がいただけて、たしかあれは夏合宿中の練習試合だったと思うが、ボールが回ってきてただまっすぐ走っただけでトライができた。地面にボールを置かなければならないことなどすっかり忘れていて、どこかで誰かが「置け―!」と叫ぶ声を聴いて慌ててグラウンディングした記憶がある。それがボクの生涯初トライ。場所は岐阜県の数河高原だった。ポジションはウイングで、中学時代はとにかく走りまくっていた。

ある試合をしているときにふと気付いたことがあって、それは「こちらの行く手を阻もうとタックルを試みるディフェンスの選手はジーッとボクの顔を見ている」ということ。そうか、顔を見て先を読もうとしているのか、と考えたボクは、顔でフェイクをしてみようと思い立った。つまり右側にステップを踏むときには走り出す前に一瞬だけ左側を向く。その顔の動きにつられてくれれば簡単に突破できるだろうと、そう考えたのである。この作戦は見事に的中。オモシロいようにトライを積み重ねることができた。ただやはり敵もさる者で、関西大会や近畿大会の上位にまで進出するとこういう姑息なプレーは通用しなくなり、また高校生になってからも全く通じなくなった。そりゃそうだわな、ディフェンス技術が高まれば小手先のプレーは通じなくなる。当然だ。だからこそそこから「どうやったら突破できるのか」を考え始めて、また新しい技術が身についていったのだろう。

なんていう風に生い立ちを書いていけばそれこそ永遠に書き続けることになりそうだ。書きながらにいろいろなことが思い出されてボクにとってはとても楽しい作業だけれど、明日のこともある。この続きはまた追々ブログで書いていくことにして、少し講演内容についての話に戻ろう。ってそもそも始めから脱線しまくりなのであるが。

箇条書きで挙げていくことにすると、
・大学時代の取り組み…サインプレーや走るコースなどを自分たちで考えながらプレーしていた。岡仁詩先生の考え方が土台にあった。白川ヘッドコーチの頑ななまでのパスへのこだわりは今のボクの財産となっている。パス、下手なんだけどね、ボクは。
・日本代表になるまでの歩み
特になりたいとも思っていなかった日本代表になれたのはなぜだろうと今でも考えることがある。周りからよく言われたのは「普通の人には経験できないことなんだから」という言葉。でもみんながみんななりたいと思っているのかなと、その時はそんなことを考えていた。とにかく楽しくプレーできればそれでよかったのだけれど。
神戸製鋼ラグビー部での取り組み
何もかもが競争的で勝利至上主義のチームであった。そこには厳しさと激しさとシンプルな考え方で埋め尽くされていた。
・たくさんのケガから学び得たこと
ケガや病を抱えた状態は身体と対話をする時間。当時を振り返ってみると、痛みとは向き合っていたものの十分な対話をしていなかったなあと、自らの未熟さが浮き彫りになる。そもそもスポーツにケガはつきものだから、ケガと付き合う方法を学ぶこともまたスポーツ活動の一つなのだ。根性で乗り越えるべきものではない。
・脳震盪の後遺症が癒えずに引退を決意
この経験から様々なパラダイムシフトが起こった。身体そのものへの考え方、それから社会におけるスポーツの役割についてもガラリと価値観が変わった。ここらあたりの経験をまだうまく言葉にすることはできないが、その「できなさ」が今のボクを駆り立てていると言えるかもしれない。
・「どれだけ練習すればうまくなるのだろう?」という少し講義的な話
「上手くなるとはどういうことか」をイメージできれば、スランプのときなどに焦ってジタバタしなくても済むし、じっくり取り組む余裕が生まれる。過剰なスポーツ科学に呑み込まれるのを防ぐこともできよう。

というような流れで話ができればなあと。なんせ1時間をひとりで話すわけだから骨が折れることは間違いない。これからの準備でいくつかのトピックスを問いの形に置き直して明日に備えようと思う。さてどうなることやら。