平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

ラグビー三昧の週末。

先週末はラグビー三昧。土曜日は、関西大学Aリーグの試合、同志社大学関西学院大学の試合を見るために、神戸ユニバー記念競技場まで足を運ぶ。100周年という節目を迎えた我が母校の同志社大学は、今シーズンはここまで前代未聞の低空飛行をみせている。残り2試合の時点で2勝3敗。関学大との試合を落とせば大学選手権出場に黄色信号が点滅してしまうほど崖っぷちに立たされている。関西リーグで負け越すのも、大学選手権に出場できないのも史上初だという。

片や関西学院大学は、近畿大学に不覚をとったもののそれ以外は順調に白星を重ね、4勝1敗で2位。1位は評判通りの戦い振りで全勝街道をバク進中の天理大学。その天理大に1敗をキープしたまま最終戦で勝利を収めれば関西リーグ3連覇となるだけに、関学大としてはこの試合は是が非でも落とせない。


伝統校の名を汚すものかという意地と、優勝するためには落とせないという意地とがぶつかり合う試合なのであった。

結果は28-25で関学大の勝利。点差はわずかながらもその実力差にはやや開きがあったように見受けられた。それはゴールライン付近での攻防に表れていたように思う。同志社は自陣ゴールライン付近でのディフェンスに粘りがなく、また相手ゴールラインを目前にしてのアタックに余裕がなかった。アタックに関してはモールを組んだ後のプレー選択がお粗末で、押し切るのかそれともいつかのタイミングで仕掛けるのかといった判断がチームとして共有されていなかったように思われる。「行き当たりばったり」という印象だった。選手一人一人の描くイメージがバラバラな分だけ焦りが生じ、ミスが出るという悪循環。「何としても勝たねばならない」という悲壮感が視野を狭くしたのだろうと、後輩たちのアタフタした戦い振りからそう感じないわけにはいかなかった。

対する関学大には落ち着きが感じられた。おそらく試合を通じれば同志社大の攻める時間の方が長かったように思うが、いざゴール前まで攻め込んだときには確実にトライをとっている。数少ないチャンスを生かすことができたのは集中力の高さで、集中力を高めることができたのは、これから行おうとするプレーへの理解度(これは次のプレーを予測する力と言い換えてもよい)が深く、それをもとに選手それぞれの描くイメージが共有されていたことに尽くされる。つまり、味方選手の咄嗟の動き出しに身体が自動的に反応できていた。これはディフェンス時にも発揮されており、だから3点差を背負いながらも守り切ることができたのだろうと思う。

個々の動きにばらつきがみられた同志社大と個々の動きが呼応していた関学大。この試合に限らずとも選手個々が有機的につながっているチームは強い。パスもキック後のチェイスもモールも、すべてのプレーが滑らかになる。

これで同志社大の自力での大学選手権出場は消えた。天理大と関学大の2強、それからここまで全敗している摂南大を除く5チームが混戦状態なので、次の摂南大に勝ち、他チームの試合結果次第では選手権出場の道は残されているが、今季の低迷ぶりはやはり心配だ。関学大は1週空いて、関西リーグ優勝をかけて天理大と対戦する。

翌日の日曜日は大阪大会決勝を見に花園まで。久しぶりに決勝まで進出した母校である同志社香里を応援するためである。春は常翔啓光学園に勝ち、選抜大会で東福岡を追い詰めて準優勝を果たした大阪朝校に引き分けるなど、好調ぶりが伝わってきており、みんなでこれは期待できるぞと胸を躍らせていた。16年ぶりの全国大会出場も夢ではないぞとかなりの期待を抱いていた。

でも、この期待は木っ端微塵に粉砕された。一言で言えば「ディフェンスの差」。個々のタックルの踏み込みが甘く、システムとしても綻びがあった。ただアタックに関してはみるべきところはあり、バックスリーの走力には分があったように思う。ノーガードの打ち合いな試合展開となり、最終的には体格の差にものを言わされたような試合だった。

とても悔しいけれど、必死になって走って当たっている後輩たちの頑張りからはいっぱい元気をもらったような気がする。悔しさをにじませる後輩たちをみれば「ようがんばった」という言葉しか浮かんでこない。一番悔しいのは彼らなのだ。そんな彼らを見て、かつてボクもそこで走っていたんだよ、と少し誇らしげに思っている自分を発見できたことはうれしかったなあ。

祝勝会から一転して残念会となった試合後の宴では、恩師と歴代OBの方々と後輩たちと、今日の試合の総括やこれからの香里について侃々諤々。懐かしい面々と話してるといろいろな思い出が後から後から湧いてくる。「そういえばあのとき…」という枕でどんどん話はつながり、マッシュ(中・高の時の監督)からは教育者としてのアドバイスをいただき、でもラグビー話をしているうちにいつの間にか同じ目線で語り合っていたり。マッシュはやっぱり熱い。

皆がどんどん酒の海で溺れそうになる中で、やっぱりラグビーはええなあと思った。悔しさをぶつけ合い、今日の反省はこのプレーでじゃあこれからの戦い方はどないしたらええねんと自論を語ったりする中で、引退を余儀なくされてからというものどこか斜めからみていたラグビーがまた自分の手元に戻ってきつつあるような感覚を覚えた。そうだよな、オレはかつてこの人たちと同じ場所にいて、同じような経験をして、そして今があるんだよな、という当たり前で当たり前なことが後から後から実感として溢れてくるものだから、飲み過ぎずにはいられなかった。ラフロイグソーダ割りがとてもとてもおいしかった。

たとえ一度でも穿った視線を注いでしまったツケがこれほどまでに尾を引くとは夢にも思わなかった。ごめんなさい。どうやら相当にかっこをつけていたようです。ボクはラグビーなしでは生きていけません。そのことがよーくわかりました。

そして、この自分自身が充実していくような感覚を、ボクが体得したラグビーの技術と一緒に、次の世代にもパスしていかないといけないんだな、ということもわかりました。

そんな風にして迎えた週初めの今日、明日が休日だから講義の準備もほどほどに『500年前のラグビーから学ぶ』(杉谷健一郎、文芸社)を読んでおりました。数百年という時間の中でたくさんの人の想いが連なって今のラグビーがある。それはラグビーに限ることではなく、現存するすべての制度や文化や慣習に当てはまること。あらためて歴史を振り返ることの大切さと面白さを再認識しました。ラグビーというスポーツには人を熱狂させるだけの「何か」がある。その「何か」を語り継いでいきたいと思う。