平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「なにか」に触れる、乱読と通読。

乱読や通読というのは自分の中にある無意識に働きかけるという意味ではとても大切なのではないか。

と、曇りがちな休日の朝にふと思いついた。

書かれてある内容を正確に記憶する。たとえば固有名詞や数字を忘れないように気をつけながら読み進めるのは、なにか大切なことを置き去りにしているような気がしてならない。講義をするための準備として、このような読み方が必要なのはよく理解している。実際には固有名詞と数字を間違わないように何度も頭に叩きこみつつ、ど忘れしたときのためにノートの端にメモ書きもしている。そもそも本を読むことの目的の大半は知識を蓄えることにあるのだから、当然といえば当然の作業であるし、この読み方がもしかすると王道なのかもしれない。

でもね、たぶんだけど、それだけじゃ不十分な気がするのだ。あらゆる本を同時並行的に読む「乱読」、細かなところを気にせず一気に読む「通読」をすることでしか理解することのできない「なにか」がある。と、ボクは思う。朧気ながらにでもそれをつかんでおかなければ、固有名詞や数字をかき集めたところで本当のところでの理解に至らない。だから講義としても不十分になる。なんというか、オウム返しをしているだけに思えて、どこか自分の話す言葉が空疎に感じられる。別にボクじゃなくてもそこらにいる誰かが話してもいいような内容になっているようで、表面がつるりとしたそんな話に学生たちはワクワクするはずもなく、お互いに徒労を感じることになる。

今さらだけど、やはり本はじっくり読み込まないといけない。

いろいろな読み方でじわりじわりと読まないといけない。と、ボクは思う。昨夜、ツイッターでも呟いたが、大学からの帰り道で車を運転している最中に、『純粋経験』(@西田幾多郎)のひとつである「意志」が、ふっと腑に落ちた。イメージがパーッと胸のあたりに広がった。頭じゃなく、胸のあたりに。うまく言葉で説明できないけれど、「なるほど、こういうことか」という納得が得られた。これもね、まずはじっくりゆっくり読んで、抜き書きして、理解はできなくても通読して、常にカバンの中に入れておいて開ける度にその存在を目にして、という一連のお付き合いがあったればこそ、得られた納得なんだろう。

ここ最近はお風呂に入りながら村上春樹夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(文藝春秋)を読んでいるのだが、リラックスしながら言葉を目でなぞっているときにちょいちょい引っかかるフレーズが、ある日常の一コマで心が波打ったときにふと浮かんできたりもする。それは「判断するのではなく観察すること」だったり、「誤解の総体が本当の理解である」だったり。それはおそらく言葉の奥にある、村上春樹自身が身を焦がして考えて辿り着いた「なにか」に、ふと心が揺れるからだろう。その「なにか」に、少なくとも今のボクは助けられている。それらのフレーズに、心とカラダがほぐれるのを感じている。

だから細かなことは気にせずとにかく本を読もうと思う。おもしろそうな本を手当たり次第に、内容を覚えようと肩に力を入れることなくさらりと。そうしていろんなものを無意識の中に放り込んでおいてから、固有名詞や数字を追うことにする。固有名詞や数字をアンカーにして話を組み立てることができれば、言葉が後から後から湧いてくるあの感じをいつも体験することができるようになるんじゃないだろうか。って、そうなるにはかなり果てしない道のりが続くだろうけれど。