平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

日本代表には外国人選手がいる。

ワールドカップに向けての強化合宿のためイタリアに遠征するラグビー日本代表メンバーが発表された。このメンバーにはカタカナで表記される外国人選手が10人いる。そのうち帰化して日本国籍を取得しているのは5人。つまり外国籍で日本代表選手に選出されているは30人中5人。6分の1だからそれほど多くはないと思うのだが、そのほとんどが主力級の選手である。帰化した選手を含めれば試合に出場する15人のうちのほぼ半数が外国人選手となる。

 

ラグビーの日本代表チームには外国人選手がいる。ニュージーランドやトンガなどの外国籍を持つ選手が日本を代表するチームのメンバーに名を連ねることができる。外国人選手が日本代表に選出されるのはラグビーというスポーツの大きな特徴のひとつであり、かつて僕が日本代表だった時もチームには数人の外国人選手がいた。だからといって違和感を覚えることはなく、ただこういうものなのだと思っていたし、時折口にする日本語のたどたどしさで笑いが起きたり、英語でうまくコミュニケーションがとれない自分に苦笑いをしたりと、思い返せば心地より刺激があったことしか思い浮かばない。

 

ラグビーでは外国人選手でも日本代表に選出される。

 

ラグビー関係者なら誰もが周知しているこの事実は、どうやらラグビーに詳しくない人たちにとっては理解し難いことのようである(いや、たとえラグビー関係者であってもうまく理解できているわけではない。周知はしていても快く受け入れているかどうかは微妙なところだろう)。先日もツイッターで「どうも外国人選手のいる日本代表チームを応援する気にはなれない」という意見を頂戴した。日本を代表するチームなのだから日本人だけで構成すべきである。この意見は確かにもっともだと思う。しかし、こうも単純に言い切ることが僕にはできない。なぜなら僕はかつて日本代表チームで外国籍のチームメイトとともに試合をしてきたからである。彼らと同じチームで戦った経験はかけがえのないものとして今の僕に刻まれている。

 

たとえば1999年のワールドカップで同室だったパット(故パティリアイ・ツイドラキ選手)とは、片言の日本語と片言の英語でやりとりしながらいろいろな話をした。フィジー国籍だった彼は、引退後に帰国して会社を立ち上げると意気込んでいた。だから部屋にいる時はその準備のための本をずっと読んでいて、ワールドカップ中なのに余裕だなあと感じていたことが思い出される。トヨタ自動車に所属していたので僕がいた神戸製鋼ともよく試合をしたし、同じポジションだったから対面勝負をする機会も多くあった(大概、抜かれていたのだが)。いつも陽気で明るい彼だったが試合になれば誰よりも真剣に熱くなり、グラウンドを縦横無尽に駆け回ってトライを量産する日本代表の名ウイングだった。

 

誠に残念ながら、現役を引退した後に帰国してまもなく急性心不全で亡くなった。33歳という若さだった。ラグビー人生を終え、新しいステージに足を踏み出した彼の失意はどれだけのものだったのか、僕にはうまく想像することができない。所属チームが異なるのでそこまで親しく付き合ってきたわけではないが、たとえわずかであっても日の丸を背負ったチームメイトとして彼のことを忘れるわけにはいかないと思っている。彼のために僕が唯一できるのは、彼のプレーぶりを後世に語り続けることだと心に決めている。

 

少し思い出話が過ぎたようである。

 

ラグビーは外国籍を持つ選手であっても日本代表に選出される。とはいえ、誰でもなれるというわけではないのは言わずもがな。日本ラグビーフットボール協会規約に定められている条件をクリアしなければならない。詳細については規約を参照してもらうことにして、ここでは大枠を示すに留めておく。

 

  日本で誕生した

  両親、祖父母のうち一人でも日本の出身である

  日本で満3年以上継続して居住している

 

このいずれかをクリアし、且つ、他国の代表選手に選ばれていなければ(つまり2カ国以上の代表選手になることは認められていない)、日本の代表資格を得ることができる。日本だけでなく世界も同じ。

 

つまり、ラグビーでは「国籍よりも実際にプレーしている土地」を優先するのである。「国家への所属」よりも「チームへの所属」を優先する。ここがオリンピックや他のスポーツと違うところだ。

 

これをよしとするのか否かは考え方が分かれるところだろうし、とてもデリケートな問題を孕んでいることは百も承知している。国民国家という概念の根幹に関わる問題として今後も継続的に議論を続けていく必要があろう。「これからどうすべきか」という結論が直ちに出るとは考えにくいし、出してはいけないとも思う。あらゆる角度から意見が出尽くすまでは十分に議論をしなければならない問題としてある。

 

ということを踏まえた上で、ここからは僕の意見を書いていきたい。かつて日本代表選手として国籍の異なるチームメイトとともに戦った経験から、思うところを書いてみたいと思う。

 

僕が出場した1999年のワールドカップメンバーには6名の外国人選手がいた。(グレアム・バショップ、ロバート・ゴードン、ジミー・ジョセフ、アンドリュー・マコーミック、パティリアイ・ツイドラキ、グレッグ・スミス)。いずれも主力級であり、全員が先発メンバーであった。マコーミックに関してはキャプテンを務めた(外国人がキャプテンを務めることに各方面から意見が飛び交ったことは言うまでもない)。当時は外国人選手をたくさん起用してまでも勝ちたいのかという、どちらかと言えば批判的な声が世論の大半であったように記憶している。

 

結果的にワールドカップでは3戦全敗。その結果、「外国人選手をたくさん起用したって勝てなかったじゃないか」と各メディアは挙って書き立てた。プロスポーツでは結果が伴わなければ容赦なく批判される。勝者は賞賛され、敗者は見向きもされない。これは必然であり仕方のないことだ。だが、外国人選手をたくさん起用したことを指摘し、その采配を振るった監督が批判されるのはどうも納得がゆかない。ただベストメンバーを組んで戦っただけのこと。国際ラグビー機構(IRB)で定められている規約に則って選手を選考したまでのことで、それのどこに瑕疵があるのだろう。当時の僕はこんな風に考えていたように思う。各メディアからの報道もどこかピンとこなかったのが正直なところであった。

 

同じチームに外国人選手がいる。ただそれだけのこと。僕の実感としてはこのこと以外にリアリティを感じなかった。それも当時はまだ他国の代表選手になっていてもよかった、つまり2カ国にまたがって代表選手になることができた時代なので、元オールブラックスの選手が同じチームにいた。ものすごいプレーを連発する選手が同じチームにいて、そのプレーを目の当たりにすることができる。厳しくも楽しくプレーするその姿に見とれてしまわないよう、自分のプレーに集中することに努めたりもした。そこには国籍がどうのという視点は全くなく、僕にとっては尊敬できる1人のラグビープレイヤーとしか映らなかった。この人たちと一緒に試合をしたい、この人たちに認められたい、そんな想いで練習に取り組んでいた。

 

勘違いしないでほしいのだが、外国人選手だからとか、オールブラックスだからそんな風に感じたのではない。もしそうであるとするならば、外国人選手と日本人選手を区別する視点を持つことに他ならず、その点で、外国人選手を排して日本人だけの代表チームを目指そうとする人たちとなんら変わらなくなる。すごいプレーをする選手が目の前にいる。卓越したプレーをする選手が目の前にいる。それがたまたま外国人選手だっただけ。もちろん日本人選手だってすごいプレーをする。代表に呼ばれたばかりの当時の僕にとってはすべての選手のプレーが刺激的だった。昔からの友達に、「○○選手のタックルはえげつないねんぞ」とか「○○選手のスピードは半端ちゃうわー」とか、さも自慢げに話していたのを覚えている。その○○選手が外国人であろうと日本人であろうと、そんなことは問題ではない。目を奪われるような卓越したプレーに国籍なんか関係ない。国籍云々の話は言うなればその卓越さの理由を最もらしく後付けしたに過ぎない。

 

ラグビーの日本代表に外国人選手がいることの是非。先にも書いたがこの問題はデリケートな問題を孕んでいる。軽々に語ることのできない問題である。なぜならこの問題には「日本人とは何か?」という問いかけが絡んでくるからである。この根源的な問いかけに、今の僕が充分に答えられるとは到底思えない。だから自分の経験を引き合いにして思うところを綴ってみたわけであるが、書いてみたところで何がわかったわけでもなく、もしかするとさらに話を複雑にしてしまったかもしれない。

 

ただ、その中でひとつだけ確信を持って断言できることは、鳥肌が立つようなプレーを目の当たりにした時の奮えには国籍など関係ないということ。これまでに見たことがないようなプレーを目の当たりにしたときに生じる感動そのものを、頭で解釈しようとした時に「外国人だから」という理由を持ち出すだけだということである。すごいプレーはすごいのだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 

「日本人とは?」「国民国家とは?」「スポーツとは?」、これらの問いかけに面と向かって取り組まない限り、この問題の答えは見えてこないだろう。これを踏まえた上での僕の考えは、日本代表に外国籍の選手がいても何も気にしないし、そんなことよりもオフロードパスがどんどんつながる創造的で愉快なラグビーをするチームが見たいということだ。つい先日のなでしこジャパンではないけれど、やっぱりワクワクするような試合が見たい。

 

超絶的な身体パフォーマンスを前にすれば国籍問題など消し飛んでしまう。これが実感から出発してたどり着いた僕の考えである。