平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

讀賣新聞で書かせてもらった分。

掲載日から時間が経ったからもういいですよね?

(って誰に聞いてるんやろ?)

ってことで、以前に告知していた讀賣新聞へのコラムをアップしておきますね。

ちなみにこの話をもちかけてくれたのは140Bの江さん。

思い起こせば毎日新聞で連載するようになったきっかけも同じく江さん。

こころより感謝しておりますです。合掌。

ラグビー的チームプレーは少年を大人にする』

 まだバスケットボール部に所属していた中学1年の終わり頃に、友人からの誘いがきっかけとなって初めて楕円球に触れることになった。ルールすらわからないままに入部を決めたものだから、しばらくはただボールを追いかけるだけの日々が続いたが、半年分だけ上達している同級生に一日も早く追いつきたい一心で練習に取り組んでいるうちに、いつのまにかラグビーにのめり込んでいた。

 授業の合間の休み時間にまでスクリューパスの練習をしていたのも、早く仲間として認めてもらいたいがためだったような気がしている。いきなりラグビーのおもしろさにはまったわけではなく、チームという共同体の一員として認められるためになり振り構わず打ち込むことで、徐々にラグビーの楽しさを発見していった。そう考えればあれほどまで無我夢中になれたことも納得できる。

 付属校だったために中学、高校とほぼ同じメンバーで過ごした6年間は、かけがえのない時間として心に刻まれている。あの頃はラグビーが生活の大半を占めており、気心の知れた仲間たちとただただグランドを駆けずり回っているだけで事足りていた。

 日曜日の練習が大して苦にならなかったのは、練習後に行き慣れた中華料理屋でたらふく食べたあとゲームセンターでだらだら過ごすのが楽しみだったからであり、グランドの中だけでなくすべてを引っくるめての時間を共にした仲間たちとのラグビーは、今になっても身体に染み込んでいて抜けない。

 こうしたラグビーとの距離感は、大学に入ってからも大きく変わることはなかった。とは言っても、100名を超す部員の中でレギュラーになれるのはわずかに15人なのだから、高校の時と比べて選手個々に競争意識の高さがみてとれたのは否めない。関西を制することのみならず日本一を目指すチームであったし、全国の高校から高いレベルでのプレーを望む選手が集まっていたのだから、レギュラーの座をつかむために目の色が変わるのは当然のことである。

 それでも自主性を重んじるという同志社ラグビーの伝統のせいかどこかのんびりしている雰囲気もあり、楽しむことと競争することのバランスが絶妙に保たれていた。だから勝てなかったと言われればそれまでだが、このバランスの中で取り組んだことに大きな意味があったと今は思っている。

 勝利を意識しすぎることなく楽しいだけで十分だったこれまでのラグビー観が大きく変わったのは、神戸製鋼に入ってからである。七連覇という輝かしい実績を誇るチームには常に勝利が求められ、敗北は許されることではなかった。

 会社をはじめOBや社内の人たちの支援を受けていることもあって、「勝利しなければならない」という重圧は凄まじいものがあったが、いつのまにか慣れていった。戦う集団の一員としてラグビーに接するようになったことで「狙って勝つ」ことのおもしろさを覚え、やがて選ばれることになる日本代表では熾烈なポジション争いをしながらチームのために戦うことも経験した。

 僕のラグビー観には社会に出る前と出た後に大きな断層がある。とにかく楽しかった大学までのラグビーに、社会人になって勝利への追求という厳しさが溶け込んだ。「勝利しなければならない」という過酷な重圧に押し潰されることなく、重圧そのものを楽しもうと努めることができたのは、ラグビーというスポーツの本質である「チームプレー」のおもしろさを若かりし頃に享受していたからであろうと思う。

 チームメイトが授業中に考えたサインプレーが試合で見事に決まったときの、あの昂揚感。試合中に味方同士で声を掛け合いながら攻めたり守ったりするときの、あの一体感。さらには、声を掛けるまでも目線を合わせるまでもなく、味方と同調するようにしてパスがつながったときのあの爽快感は、筆舌に尽くしがたいほど心地よい。昨今のスポーツにありがちな勝利至上主義や商業主義がもたらす快楽とは似ても似つかないこの心地よさこそ、「チームプレー」がもたらす最大の果実なのである。

 勝利至上のもとにチーム内での競争意識が高まれば個人プレーに走りがちとなり、「チームプレー」は等閑になる。だが「チームプレー」なくして勝利はない。これは個か集団かの問題ではなく、人間一人ではなにもできないことの紛れもない実感である。僕がラグビーから学んだことは、身近にいる仲間とともに勝利を目指すことのおもしろさに尽きる。

<08/03/14 讀賣新聞「新生活2008」に掲載>