平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

酒場で交わしたことばから。

しばらくぶりの更新。

 

春は出会いと別れの季節ということで、ここんところは食べて飲む機会が頻繁にあってたくさんの人といろいろなことばを交わした。

この1週間を振り返ってみると、

これからお世話になる目上の方々との温泉旅行、

シックス恒例のイベント「フットボールコーチンセミナー」とその打ち上げ、

大学院の卒業記念パーティーの日は4次会までのロングランな飲み歩き、

そして卒業式に列席した土曜日の夜はハギじい、クローンと久しぶりの飲み会に、

翌日に仕事を控えた二人を送った後は1週間で2度目の【THIRD ROW】を深夜まで。

近くにいながらもなかなかその機会に恵まれずに初めて砕けた話をしたアイツらもいれば、久しぶりに会ったはずなのにそれほど違和感もなく溶け込めたあの人たちもアイツらもいた。

そんな人たちとの時間を過ごした僕のテンションが上がらないわけがなく、アルコール量の多寡に関わらず翌日はあまり二日酔いにならなかったことがどれほど僕が楽しんでいたかを物語っていると思う。

 

今朝目覚めたときには喉が痛くて少し体調を崩しかけているのは否めないけれど、まあそれもご愛嬌程度で心はなぜだか晴れ晴れとしている。

 

心が込められたことばを聴くと人は明るくなり意欲が湧いてくる。

 

歯の浮くようなフレーズには違いないけれどこれを実践するとなるととても難しい。なぜならことばは一長一短で身につくものではないからだ。

信念を持っての生き方や生活そのものから不意ににじみ出るようにしてしかそういったことばは生まれない。

そういったことばはなぜだか身体に染み入ってくる。

世間で乱用されている「癒し」ということばは本来的な意味を剥奪され、限りなく一義的な解釈を携えて私たちの意識に付着しているけれど、そういった意味での「癒し」とは正反対の意味において「心が込められたことば」は私たちを癒してくれる。

 

ただし、それを聴くのは本当に難しい。

と思うのは、「心が込められたことば」であっても聴く側にその準備ができていなければただのことばに堕落してしまうからだ。

表層的な意味だけに囚われず深奥に潜む「心」に触れようとする姿勢でいなければ、琴線に触れることはまずなく、「歯の浮くようなフレーズ」として処理するか、反射的にカチンとくるにとどまる。こことは違うどこかで語られていることばとして解釈してしまうのだ。

 

語り尽くせないことをわかっていながら語るからあれほどまでにのめりこむのだろうか。翌朝目覚めたときに昨日までとは違った風景が目の前に広がるのはなぜだろう。

酒場を離れて帰路に着く途中からすでに感じ始めているこうした「自らの変化という実感」をもしも成長と呼ぶのだとしたら、酒場から私たちはたくさんのことを学ぶことができるということだ。だから少しのムカムカ感と軽い頭痛が伴うくらいはしょうがない。

 

ということをこの1週間の間に“改めて”気付いたような気がしている。