平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

『街場の大阪論』は素敵だ。

出張ウィークの最中、旅のお供として持ち歩いていたのが街場の大阪論 』(江弘毅著、バジリコ)である。
つま恋に出発する前日に著者である江さんからメールが入り、そのメールを見て「そういえば今日が発売日やった」と思い出してすぐに書店に走り、購入。
とてもとても楽しみにしていたわりには発売日を失念するという失態に、近頃の自らの余裕のなさを痛感しつつ、「でもまあええか」と開き直ってページを開くとやめられない止まらない。
3年前の夏に発売された『「街的」ということ 』とはまた違ったオモシロさに、

「ふむふむ」「それは言い過ぎちゃうん」「そうそう」「んんん、なんかようわからんけど、わかる気もするなな」ってなひとり突っ込み満載に読み進めたのであった。
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『街的ということ』は、なんか気になってるけど
それが何かがいらいらきーという人にはええ本だけど、
なんにも気になってない人には
「へー」で終わる可能性もあった。
つまり、ちょっぴり、街玄人向けの専門書であった訳です。

が、しかし、
『街場の大阪論』は優しい。
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と、アオヤマさんがブログに書いているように、
まさしくこの『街場の大阪論』は優しい。


江さんが「街的」と言うことばに込めている思いや考えが、手触り感のあるエピソードを通じてにじみ出てきている。そう感じられるから思わず笑けるし、なぜ笑けるのかという理由がわからないまま、なんだかわかったような気にさせられるから不思議である。
一刀両断にではなく、しかしあくまでもロジカルで身体的に書かれたこの本を読めば、表面で凝り固まり心とカラダの枷となっているあれこれが取り払われて、おもむろに街に出かけて餃子をあてにビールでも飲むかという気になってくる。

そして一応大阪で生まれた僕が、いかに大阪という街を知らずに今まで過ごしてきたのかを突きつけられて、うな垂れることにもなった。でもこの落ち込みは、まだまだ知らないあれこれが大阪という街に潜んでいることへの予感も含まれているから、うな垂れつつも希望に胸をときめかせることでもあり、それはそれで好ましい。言ってみれば未開の地がこんな近場にあったんだという気づきなわけだから、それを喜ばずにはいらいでか。ということである。

さて、今週の金曜日に、『街場の大阪論』発売&「Meets」20周年記念イベントが、ジュンク堂書店大阪本店で行われる。「ぼくらは情報ではなく、街を編集してきた」というテーマのトークセッションが今から楽しみで仕方がない。いつもは【サードロウ】や雀宅を囲みながら聴かせてもらっている江さん節が、公的な場ではどのような響きをもたらすのだろう。

あー、楽しみである。