平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

好きな理由は「髪の毛が長いから」。

保育現場におられる方と話をする機会をいただいた。大学院時代の同級が久しぶりに研究室を訪ねて下さり、なつかし話に花を咲かせたのである。

2年ほど前に保育園ラグビーを見学したことがあるのだが(その時の感想は「身体観測」に書いたのでこちらを読んでもらえればありがたい)、声をかけていただいたのがこの同級生でもあるSさん。お話をうかがっていると子どもたちにたくさんの愛情を注いでおられる様子が伝わってきて、とても清々しい気持ちになった。現在は保育園が建て替え中のため、近くにあるお寺で保育をなさっているそうである。

お寺での保育…、なんだかとてもいい感じだ。

話題の中心は「子どもたちが持っている感性」について。同じく大学院同級の、今は職員として大学に勤務しているYさんも交えて話したのであるが、Yさんもかつて幼稚園で働いていたこともあり話は大いに盛り上がる。「子どもは本質を見抜いている」という意見に3人ともがうなずく。ボクはもちろん保育の経験などないので直感にしか過ぎないのであるが、これは紛れもなくその通りだなと思う。たとえば小学校に上がる前の子どもにじっと見つめられたとき、これまでの自分のすべてが見透かされているような気になるのはこの直感を支える実感である。後ろめたいことなんか数え上げればキリがないし、すべてを数え上げられるほどに人間もできていないし、落ち込み具合に追い打ちをかけるようなそんな無益なことは絶対にしないけれども、子どもが投げかける無垢な視線の前にはすべてが赤裸々になる。「なんか、はずかしいなあ」と漠然と感じてしまう(そこでこの恥ずかしさをふっ切って胸を張ることが大切なんだけれども、ね)。

お二方によれば、子どもたちは大人をまずは好きか嫌いかで判断するとのこと。それで「好きな理由は?」って訊ねると「髪の毛が長いから」というようにピント外れの答えを口にすることが多いのだという。

なるほど、やっぱり好きなことに理由などないのだと得心する。おそらくその子どもには「なんだかわからないけれどとにかくこの人が好きだから」という以外に特別な理由なんかなくて、ただ「好きな理由は?」って訊ねられたがために何でもいいから思いついたことを言わなければと「髪の毛が長いから」になったのだろう。大人になれば比較的にたくさんの人たちが納得するようなもっともらしい理由をあてがうことができるけれども、語彙の少ない子どもにはそれができない。おそらくその人を想像して印象に残っていたことが口をついて出たということなのだろう。だからピント外れなのは仕方がなく、というよりも大人が勝手にピントが外れていると認識しているだけだろう。「とにかく好き」、それで十分なのだ。

こういう話がボクは大好物だ。なんだか心が洗われる思いがする。ついつい好きな理由を考えついてダラダラと説明してしまう野暮な自分がいるよなあと、最近はちょっとだけ落ち込んでいたから、やっぱり感性は大切にしないといけないよなと改めて気づかせてもらった。ここんところ頭の中をグルグル回っているのは感性であったり、直感であったり、勘であったりして、それはつまりこれら目に見えないもの、過日のブログにも書いた「こびとさん」なるものの存在を強く意識しているからであろう。ツイッターでもこのところちょっと後ろ向きな発言が続いているのはおそらくこの影響があると思われる(読んでくれているみなさま、本当にすみませんです。愚痴るのはこれで最後にしたいと思いますので)。

「好き」には理由がない。当たり前に当たり前なことを、あらためてお二人との話から得心した次第。こんなにも余裕がなくなっていたのね、と自己嫌悪を感じつつも、でもまあいいや。これからまた自らの感性に水やりをしていけばいいのだから。

Sさん、Yさん、またいつでも遊びに来て下さいねー。
いろんな話、聴かせて下さい。