平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

『人間の建設』から『他者と死者』へ。

『街場の大阪論』 (新潮文庫) を買うためにぶらりと立ち寄ったジュンク堂で『人間の建設 (新潮文庫) が目に留まる。殺伐としたタイトルに「ゲッ」となったのが正直なところだが、小林秀雄岡潔という名前が目に入った瞬間に「オオッ」となり2冊重ねてレジに持っていく。そのままエスカレーターを降りて喫茶店に入り、待ち人が来るまで読み進める。そしてその翌日も読み進めた。

ちりばめられたカッコイイ言葉にしびれまくりであった。それをいくつか書いておこうと思う。

まずは無明ということから。「人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明(岡)」と言い、「人は無明を押さえさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができる(岡)」のだと言う。学問的なるものを批判する文脈で語られるこの無明は仏教用語でもあり、迷いを意味している。迷いを受け止めることでやっていることが面白くなってくるというのはとても得心するが、同時にその境地からいささか隔たったところにいるであろう今の自分にとっては耳の痛い話である。この「迷い」はウチダ先生が言うところの「ためらい」とほぼ同じ手触り感がして、ぐるりと一周して少し登れたような実感にホッとしてもいる。

次に、今の日本では個性が重んじられていないという文脈で「本質は直感と情熱でしょう(岡)」とも言っていて、批評家であれ詩人であれ「何かを創ること」の本質は直感と情熱であって、それはつまり勘がはたらくということに他ならないのだという。「…勘は知力ですからね。それが働かないと、一切がはじまらぬ。それを表現なさるために苦労されるのでしょう。勘でさぐりあてたものを主観の中で書いていくうちに、内容が流れる。それだけが文章であるはずなんです(岡)」との言葉は、ボクの身体の真ん中を貫くに十分であった。確固たる根拠を列挙しなければならない環境ではこうした勘が育つわけがない。どうしたものか…。これは学生のためにも自分のためにも考えるべきことで、いつの時も念頭においておかねばならぬことだぞとやる気が湧いてくる。

驚いたというか、半ば想像はしていたのだが、数学者である岡潔が語るのは、感情、感覚、直感、勘などの目に見えないことばかり。以下の言葉からも岡潔がいかに目に見えないものを大切にしているのかが窺える。「そのことは、数学のような知性のもっとも端的なものについてだっていえることで、矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。感情なのです。そしてその感情に満足をあたえるためには、知性がどんなにこの二つの仮定には矛盾がないのだと説いて聞かしたって無力なんです。…人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです(岡)」。ボクたちは矛盾に対峙した時、誰もがわかる根拠を列挙しようと躍起になるけれど、それには何の意味もないと岡は言っている。矛盾を突破するために知性は役に立たない。これは本当にその通りだなと思う。その通りだなと頭では容易に理解できるのだけれど、これがなかなか難しい。なぜならあまりに当たり前なこと過ぎるということと、現代社会では発言するものに確固たる根拠を示さなければならないという信憑が刻一刻と広がりつつあるからである。だから不用意に日々を過ごしているといつの間にか知性で矛盾を解決する習慣ができてしまい、それに伴って積み重なっていく徒労感に精神や心が疲弊してしまうのである。こうした言葉をたえず浴びていないと大切な何かを失ってしまうのだ、きっと。

これ以外にも、「情緒というものは、人本然のもので、それに従っていれば、自分で人類を滅ぼしてしまうような間違いは起さないのです(岡)」は、“頑張らなければできないことはそもそもしない”というあるときに師匠と四国の守さんが口にしていた言葉とつながるし、「時間というものは、強いてそれが何であるかといえば、情緒の一種だというのが一番近いと思います(岡)」からは『他者と死者―ラカンによるレヴィナス』の内容がふっと浮かんだ。それでパラパラと読み返すとビンゴな箇所を発見したのでそれも引用しておくと、「これに対して、もう一つ未来から過去に流れる時間意識というものを私たちは想定することができる。ハイデガー的に言えば『時熟』する時間意識、ラカン的に言えば『前未来形』で生きられる時間意識、レヴィナスの術語で言えば『他者のための/他者の身代わりの一者』の時間意識がそれである。それは『私についての物語を語り終えた私』を想像的な起点として今ここを照射するような、逆送する時間意識である(169頁)。」

時間って不思議だよなあと漠然と考え始めたのはおそらく5年ほどまえになるが、こうして時間に対する考え方が重層的になるにしたがって思考の幅が広がったように感じている。今ここを生きている生身の人間が感じられる時間意識というのは、過去→現在→未来と単純に流れているのではないということ。この時間の転倒すなわち「時間は情緒であること」が完全に腑に落ちるまでにはまだまだ時間がかかるにしても、こうした言葉に触れるたびに思い出しては何度も反芻することが大切なのだ。いつ腑に落ちるのかは定かではないが、いつかは必ず腑に落ちるという確信はある。ただの勘だけど。

なんてことを考えながら読み進めたわけだが、お二人がドストエフスキートルストイについて語り始めたあたりからボクの頭ではついていけなくなり、そこで本を閉じる。二人の違いを語られても彼らをほとんど読んでいないボクにとってはちんぷんかんぷんであった。またいつか読もう。そのいつかは今晩かもしれないし、来月かもしれないが、まあいい。

いずれにしても世の中にはものごとを根源的に考えている人がいる(いた)。今のボクはその事実にとてもとても勇気づけられている。さあ帰ろう。