平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「「経験値』という言葉に」身体観測第96回目。

 スポーツニュースで耳にするたびに違和感を覚える言葉がある。「経験値」である。たとえば、代表に選ばれて間もなく試合に出場したのだがあまり活躍できなかった選手を指して「経験値が足りなかった」と評したりする。言わんとすることはよくわかる。迫りくる重圧を受けながらパフォーマンスを発揮するためには経験こそがものを言う。どれだけ場数を踏んでいるかがハイパフォーマンスにつながるのはいわずもがなであり、スポーツコメンテーターらはそのニュアンスを込めて口にしているのだろうとは思う。

 しかしそれならば「経験が足りない」と表現すればいいのではないだろうか。なぜそこに「値」をつける必要があるのだろう。経験なるものの本質を考えるならば、むしろ「知」をつける方が妥当ではないのか。

 私はここに、数値化できないはずの経験を数字に置き換えて把持したいという無意識的な意図を感じる。わかりやすさを求めるがゆえに生まれるこの心性から、ここまで数値主義がスポーツ界に広がりつつあるのかという落胆さえ覚える。

 「経験値」という言葉からすぐに連想されるのはテレビゲームである。迫りくる敵を倒しながら成長を遂げる主人公がやがて闇を支配するボスを倒すという物語で、敵を倒せば得られる経験値を積み重ねて主人公はレベルアップしていく。命のバロメーターであるヒットポイント、攻撃力、防御力、素早さなどが数値に置き換えられ、成長ぶりが目に見えてわかる。

 数字の積み重ねがそのまま成長になるのはゲームの世界だけだ。攻撃力や防御力などを数値化できるのもそう。現実世界に生きる生身の人間が備える能力はどれほども数値で表すことはできない。たとえ無意識であっても、いや無意識だからこそ、「経験値」という言葉でスポーツ選手を形容する習慣はやめにすべきだと私は思う。

<10/06/15毎日新聞掲載分>