平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

暴力性を中和するためにスポーツはある。

梅雨入りしてからというもの、天気は律儀にジメジメしてくださる。昨日はからりと晴れたけれどその日差しはきつくて暑過ぎた。そしてまた今日もジメジメしていて、朝からどれだけ汗をかいたのかよくわからない。

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限目の『スポーツ文化事情』はアメリカ生まれのスポーツの特徴についてのお話。本題に入る前に、サッカーワールドカップが行われていることを受け、この大会ではどれだけのお金が動いているのかということと、南アフリカはかつてアパルトヘイト政策が行われた国であり今も人種差別は完全には解消していないのだよという話をする。黒人、白人、カラード(混血)、インド・アジア系という4つに人種を分けて居住区域などを制限していたという話に、学生たちは熱心に耳を傾けていた(ほとんど聴いていない一部の学生たちはどんな話をしたところで興味を示さないのだけれど)。華やかな雰囲気ばかりを演出するメディアに対抗すべく、スポーツ大会開催における金銭事情(商標権の一括管理など)と開催国の歴史についての話をしたのである。ワールドカップを見る目の解像度が上がってくれればと思う。

さて。

村上春樹河合隼雄に会いにいく』(岩波書店)を読み返してみたら、暴力性について書かれてある箇所を発見。その傍らには鉛筆で「暴力性への根源的な問いかけ」と書かれたメモがある。なるほどスポーツにはそういう目的があるのだと考えれば、思考の道筋はすっきりするぞと感じたその箇所を、まずは引用してみることにする。

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河合 (…)それはどういうことかというと、わたしはそういう暴力性を持っていますよ、ということなんです。みんな持っているのですよね。
 暴力というか、腕力、人間はそういうものを持っていたから生き延びてきたのです。狩猟にしろ、採集にしろ、農耕にしろ、全部そうでしょう。 しかも、それだけではなくて、共同体をつくって、ほかのところへ攻め込むということになったら、まさに暴力がなかったらできない。そういうふうにして人間はずっと生きてきたのですね。 その中で、欧米の国々はそういうものはルールの中に取り込んだんですね。つまり戦争でも、彼らはフェアな戦争だったらやってもいいと考えたのでしょう。それからいろいろなスポーツも全部そうです。

そもそも人間には暴力性が備わっている。その暴力性を暴発させないように閉じ込めておく器としてスポーツがあり、近代化を通じてルールが整備され今日のような形態になった。社会が成熟していくにつれて暴力性が活かされる場所がどんどん少なくなるわけだから、文明化が進むにつれてスポーツに課される役割は大きくなっていく。根源的な暴力性を内包するのは本来ならば武道が担うはずであり、明治までの日本が平和であったのは、武道的な考えがしっかりしていたからであろう。「刀は鞘に収めておくものである」というところに、暴力性というものを古の人たちがどのように捉え、扱おうとしていたのかが窺える。

現代では武道の代わりにスポーツが社会的な価値を強めて私たちの生活の中に溶け込んでいる。そのスポーツに数値主義や勝利至上主義が蔓延しているとなればどうなるのか。閉じ込めておくはずの暴力性はやがて器の底から漏れ出し、社会の至るところで影響を及ぼしやしないだろうか。現にスポーツ選手の不祥事が次々と明るみに出てきていることを思えば、この憂いはもうすでに現実的に起こっているのではないか。

こんなことを考えたのは、昨夜飛び込んできた「元ラグビー選手で元競輪選手の逮捕」というニュースに一因がある。逮捕された選手はボクより少し年上で、言わば同年代である。明治大学時代のプレーはすごかった。同じポジションだっただけに強烈な印象を受けた。その選手が出資法違反の容疑で逮捕されたと知り、なんだか胸の中に大きな穴が開いたような虚しさを感じたのである。

スポーツは立身出世のためだけにあるのではない。ひとりの人間として成長することが目的で、しかも人間に備わっている暴力性を中和する役目も担っている。でも現状を鑑みるとこうした部分は見落とされがちである気がしている。かつての名選手が凋落するのをもう見たくはない。決してボクは名選手ではなかったけれど、せめて応援してくれた方々を悲しませるようなことだけはしたくないと思う。

暴力性を中和するためのスポーツのあり方とは?

先月末のウチダ先生との対談で話題に上がった「生きる力を伸ばすスポーツ」と合わせて、これから問い続けていきたい。