平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

『ニッポン辺境論』on NHK radioを聴いて。

つい先ほどまでAMラジオを聴いていた。

NHK第二で放送された内田先生の『ニッポン辺境論』である。

今のニッポンでは、政治の腐敗、医療の崩壊、教育不全が問題となっており、それらの事件を報道するメディアが誠にチープな物語を編み続けている。

現場で起こる複雑な事件の顛末を、小学生にもわかるような安直な物語の中に無理矢理押し込んでいる。

患者である私に非はなく、病院の応対が悪いと責め立てる。

学校が悪で、うちの子どもは悪いことはしていないと開き直る。

日本で40年50年生きてきたにもかかわらず、自分にはまるで罪がないような素振りで、社会システムを抜本的に改革しなければならないと抜かす。

これらのまるで子どもが駄々をこねるような言い分を助長するかのように、街角100人アンケートなどの取って付けたようなデータや形ばかりの専門家のコメントなどを根拠に最もらしく報道している。

それが現在の報道の趨勢である。

少し僕が脚色した部分がなきにしもあらずだが、前半部分は概ねこのような内容について怒気を含んだ声で語っておられたと思われる。

つまりのところはまるでガキんちょのように被害者意識を持って正義を振りかざすことがあたかも奨励されるような報道に、そんなことしてて日本は大丈夫なのかとういうことである。

まだガキんちょの僕が偉そうに言うのもなんだけれど、まだガキんちょであることを自覚しているだけマシでしょと開き直りながら言わせてもらうと、ホントにガキんちょな方々が世にはたくさんおられる、とガキんちょは思っている。

ガキんちょならガキんちょらしく、迷ったり、言い淀んだり、最後まで話を聴く姿勢でいたり、教えを請うたり、憧れたり、わからないと素直に認めたりしておけばいいのに、なぜに皆はあれほどまで断定的に物事を決めつけたりするのか。

たとえ手探りの状態であっても置かれた状況によっては「一時的」に決める必要がある場合もあるが、ここまでの話は個々人の生死が問われるようなそんな逼迫した状況の話ではない。

なんていうか、長い文脈の中で物事を捉えることが今の社会には欠落しているというか、もちろんこの内容は内田先生が途中で話しておられたことだけれども、まさにこの「時間に対する認識」がすべてであるような気がするのである。

あらゆる物事をデジタル的な発想で考える習慣が作られるように、私たちの周囲の環境は整えられつつある。

そのことがそもそも今の社会では問題なのだろう。

今すぐに変えなければならないという口調で語る人に僕が言いたいのは、「今」というのは過去においての振る舞いが集積された結果でしかないために、あまりに無時間的な思考にもとづいて「今」を変えようとすればそれは過去を清算し、改竄しなければならなくなるぞ、ということである。

たとえば。

ろくすっぽ練習もしていないのに明日の試合で結果を残さなければならないと意気込んだ選手は、それこそドーピングに頼るしかないわけだが、このドーピングをするという行為を考えてみればそれは己の「未来」を肩代わりにしてその場凌ぎで「今」を取り繕うことである。

そうしたことで確かに驚異的な結果を残すことができるかもしれない。

それに伴って賞賛を浴びることにもなるだろう。

でも、それは一時的なものでしかない。

やがては訪れる第2の人生を踏み出すときになって自分の身体がボロボロでは何の意味もない。

そもそもがないものねだりのドーピングであったのだから、いざ手にしたものも泡沫のように消えてしまうのは必然といえば必然ではある。

ようするに一事が万事なのである。

モンスターペアレンツ(こうして名付けること自体が教育そのものの崩壊を招いているようでできれば避けたいのではあるが)と呼ばれる方々は、一時の感情を晴らすべくクレームをつけることが、やがては教育そのものの土台を揺るがすことに想像が及んでいない。

病院の中で飲酒や喫煙を繰り返し、注意された看護士を殴り、入院費を払わず退院してしまう患者は、身勝手な自分の行為がやがては医療を崩壊させるに至ることなんて、これっぽっちも思わない。

現在のニッポン社会に起こっている不具合だけをがなり立てて批判する、一見したところはとてもインテリに見えるあの人たちは、ワイワイガヤガヤと持論を展開することにしか興味が向かず、その行為がいかにしてニッポンを貶めているのかについての自省はしない。

やっぱりこれらも一事が万事である。

ラジオを聴いた後なのでもろに内田先生の受け売りに違いないのだけれど、

やっぱりこういうことは書いておかなくてはならないという得体のしれない使命感みたいなものを感じたわけで、何よりも高ぶった気持ちを静めるためにはこうしてことばにする必要が僕にはあった。そう、まるで僕自身の都合である。

ラジオの後半部分は、これからのニッポンは辺境的な立ち位置を目指してはどうでしょか、という面白くも夢のある持論を内田先生は展開されていた。

「辺境として生きることは学び続けることでもある」

うーん、いい響き。

芯が通り、心が込められたことばを聴くととても元気になる。

参加できなかった昨日の麻雀の結果を気にしながら、今日は寝ることにしよう。

おやすみなさい。