平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

そもそも心は暴走するものなんだな。

午前中に2つの講義を終えた今日の午後は、
久しぶりに自分の研究に関する本をゆっくり読むことができた
何が何だかわからないままにとにかく次々と仕事なるものが舞い込んでくる中では、腰を落ち着けて研究のための本を読むことなどできない。
いや、正確に言うと読むことはできるし、実際にはちょこちょこ読んでいるのだけれど、じっくりと身体に沁み込んでいくような理解に至るまでにはいかないのである。

単なる集中力の欠如だろうと突っ込まれれば返す言葉を持たないけれども、
とにかくそうなのだから仕方がない。だからといって、今後もゆったりと流れる時間を確保するだけの余裕が生まれるとは到底考えにくい。

いやはやどうしたものか。

たぶんだけれど、今の僕にとっては実際的に研究する時間があるかないかに問題があるのではなくて、時間というものに対する心構えの方に問題があるのだろう。「時間があれば」という条件を付ける時点で、目論む行動が為される確率は低い。
というか皆無だろうと思う。

大体において「忙しくて時間がない」という理由付けは、自分という存在をより大きく見せたいがためのカムフラージュだろう。
そうして吹聴している人に限っていざ時間ができても、
何か他の娯楽に手が伸びている確率が高い。
これは僕が経験的に得た知見でもあるし、何よりも僕自身がそうである。
もう少し時間に余裕ができたら開こうと思っていた本が
自宅の本棚には何冊も立て掛けられている。
見よう見ようと画策していたあの映画やこの映画もまだ見ていなかったりする。

ようするに端からする気がないのである。
後回しにしようとする、つまり時間という概念に位置づけて「今」から未来へと追いやる衝動は、無意識的にその行為を避けようとする心の動きであって、根本的な部分でその行為に対して興味を抱いていないのではないかというような気もする。

それともう一つ考えられる理由は、
とにかく日常の瑣末な仕事に追われているときには、それらを片づけようとすべての面において「意識的に」処理しようとしてしまい、「あれをこうして、これをこうして」というふうにできるだけ迅速に効率よく捌こうとするものだから、「意味のあるもの」と「意味のないもの」に振り分けるのが当たり前になる。
すると、短期的な時間軸において「役に立つ」こと、つまりは僕自身が「意味のあるもの」と判断したことばかりにとらわれてしまって、たとえ面白そうで楽しそうだなと興味が湧いたことであっても、ついつい後回しにしてしまう。
「やらなければならないこと」の重圧に押しつぶされて
「やりたいこと」が抑圧されていくのである。

たぶんここ最近の僕は後者の方だと思う。
「これやらな、あれやらな」となんだかいつもあくせくしていた気がするからね。
でもまあ、嵐のような6月が過ぎ去ったことで心が落ち着いたのか、今はとてもすがすがしくて、だからこそ今日はゆったりと研究に没頭できたんだろうなあ。
暑かったけれど湿気がなくてカラッとした天気だったことも、
これまた心身にとってすがすがしいものだった。

ちなみに今日開いた本は『芸術人類学 』(中沢新一みすず書房)。
以前にも読んでいて(と言っても最初の方だけだが)、捉える射程の遠さに目眩がするくらいの奥深さを感じたのですかさずカイエソバージュシリーズ全5巻を購入。
人類最古の哲学』と『熊から王へ』を読み終えて今は『愛と経済のロゴス』を読み進めている途中で、中沢氏の世界にどっぷり浸かりつつある中にあって、ふとなんとなくもう一度「芸術人類学」についてのおさらいをしておきたくて本を開いたのであった。

さらっとおさらいすることなどできやしなかったけれども、
その思想はやっぱり壮大だ。

社会がその形態をどんなに変化させたところで、現生人類としての私たちの心の本質は不変であり、心の基本構造はいっこうに進化も変化も遂げていないのだということに、僕はすっかり納得させられている。
言語があって、詩や音楽が生まれたのではなくて、
まず詩的な表現があって、それから言語が作られたのである。
この違いを身体に沁み込ませておくことは物を書く上で、
というよりも生きていく上でとてつもなく大切なことのように、
僕には感じられるのである。

さて、そうした視点からどのようにしてスポーツを捉えようか。
あまりに途方もないことを考えていることは百も承知だけれど、
ちょっと考えるだけでもわくわくしてくるのだから仕方がない。いやはや。