平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「恐怖心」を乗り越えるということ~胤舜との戦いから

それにしても『バガボンド』はすごいマンガだと思う。
「マンガは所詮マンガでしかないだろう」と高を括っている人がもしもいたとしたら、酒を煽りながら『バガボンド』がいかに面白いのかについてくどくどと語ってやりたい。
ビルドゥングスロマンである」と内田先生が言っていたように、
間違いなくそのとおりであると僕も思う。

どのあたりを読んでそう思うのかといえば、
たとえば法蔵院
胤舜との戦いで武蔵が己の弱さを実感するシーン。
向こう見ずに挑みかかった挙句に、やられる寸前で命からがら逃げ出した武蔵。
天下無双を志して宮本村を出たときに「天下無双になるか、死ぬか」のどちらかしかないと覚悟を決めていたはずなのに、はかなくもその覚悟ができていなかったことに気づかされ、己の未熟さに対峙して涙を流す。
そして、揺るぎのない自信を抱いていた「死の覚悟」を簡単に凌駕した「死への恐怖」に、武蔵は取り憑かれることとなる。

「死への恐怖」というものを実感した武蔵は、どうしてもビビってしまう自分と真正面から向き合うために、胤舜の師匠である胤栄に弟子入りして山に籠る。

そして数カ月の修業を終え、再度の胤舜との対決を控えた前夜にすっかりと眠りこけてしまって約束の時間を寝過してしまうことになる。
「もしかすると明日死ぬかもしれない」とあれほど頭を悩ましていたのに、寝過ごすという予想もつかなかった行為によってまた1日生きながらえていることをひどく滑稽に感じた武蔵は、「恐怖」を乗り越えるきっかけを得ることになる。

この下りは、人が生きているうちには大なり小なり必ず経験する感情としての「恐怖」を、いかにして乗り越えるかという一つの精巧な物語として読むことができる。
僕はこの箇所を、大きな怪我を乗り越えようと努めるときのスポーツ選手の心性に置き換えて読んだ。

痛みをともなう大きな怪我は、カラダだけでなく心にも大きな傷をつくる。
フィジカル的な体の痛みはある程度の時間がたてば和らいでくるが、心に刻まれた恐れは拭い去るまでに時間がかかる上に、他者の存在が必要になる。
このときの「他者」は他人という意味ではなく、自分とは境界線を持たない「絶対的に他なるもの」という意味である。
動物でもある人間は、一度痛みを感じた場面やそれと似通った場面に遭遇すれば、己の身を守るために「怖さ」を感じる。
それは、意識がコントロールできない層で確実に沸き起こる感情である。
無意識に塗り込まれた「怖さ」を乗り越えるためには、今のままの自分では乗り越えることができないという「ある種のあきらめ」が求められる。
自分だけではどうすることもできないという「ある種のあきらめ」は、時間の流れに身を任せて目の前に起こる数々の現象をあまねく引き受けるということでもある。

つまり、大きな怪我をした選手が心に負った「恐怖」を乗り越えるためには、怪我をしてしまったシチュエーションに身を置くとどうしても沸き起こる「恐怖」と真正面から対峙し、怖がる自分を認めながら恐る恐る身体を動かす中で自信を回復していくしかない。

山に籠っていた武蔵は、自分の心に取り憑く「恐怖」をいつの時も感じていたはずで、武蔵の勝気な性格からすればそれこそ「恐怖」から逃げ出そうとしたり、ストレスのあまり気がおかしくなりそうになったりしていたはずである。
でもそうしなかった。
そして、「ふと寝過してしまった」という、自分の力が及ばない外部から到来した他愛もない出来事を解釈することがきっかけとなって「恐怖」を克服し、
胤舜を倒すことができたのである。

ちなみに胤舜が地面に倒れたあと、つまり自分が勝ったのだと確信した瞬間、己の強さを鼓舞するかのように何度も木刀を地面に叩きつけるシーンは、まだまだ成長途上にある武蔵の心模様が描かれていて、あまりにもリアルだ。
心にじわーっと沁み込んでくる。

こうして書いているとまた読んだ時のあの興奮が甦ってくるからこれまたすごい。