平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

スキーと「確かなもの」。

義憤に駆られる、といったらいささか格好つけ過ぎだが、社会の動向に目を向けていると信じ難いほどの嘘やまやかしが飛び込んでくるものだから、ついこう言ってみたくもなる。社会の底が抜けたかもしれないなと感じたのは何年も前。でも違った。その下にはまだ底があって、その底の下にもまた底があって、で、次々にその底が抜けていっている。いま自分が立っているのはいったいどこなのだろうと立ち尽くしている(底が抜けているので立てないはずだが)。

こころもからだも宙に浮いているような、「浮遊感」にも似たこの居た堪れなさは、昨年、東京に生活の拠点を移したこととも関係していると思う。大阪で生まれ育ち、大学卒業後間もなくからずっと阪神間で過ごした関西人の私が、土地勘のない場所で1から生活を始めたということが、このからだにつきまとう「浮遊感」の醸成に影響しているような気がする。自分で選んだ転職、引っ越しだからネガティブなものではないのだけれども、新しい土地への適応にからだが馴染むまでという、いわば助走期間と重なっていることでこの「浮遊感」は増幅されている気がする。

言論空間は嘘やまやかしで埋め尽くされており、実生活においてはこれまでのルーティンや慣習が通用しない。身の回りから「確かなもの」「寄りかかれるもの」が目減りするなかでは、このフワッとしたなんともいえない落ち着かなさを、なんとかいなすことがいまの課題なんだろう。

そういえば昨日までスキー実習だった。スキーでは、からだを固めることなくうまくスキー板に任せられれば雪面を自由自在に滑ることができる。斜面の角度や雪面状態によって絶えず揺さぶられながら、その揺さぶりに応じて前傾姿勢を保ち続ける必要がある。スキーをしているときのあの体感は、ここんところ私が感じている「浮遊感」に似ていなくもない。雪上の不安定さを解消するものがスキー板だとすれば、日常生活においてそれに代わるものが「確かなもの」「寄りかかれるもの」だと言えるかもしれない。

どこかフワフワしながらも、その状態でうまくやっていく。そのために必要なのが「確かなもの」。東京生活も1年が経って、少しずつそれらが増えてきたような気がするが、問題は社会の方だ。最後の底板が抜けないように、私なりに発信を続けようと思う。