平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

体感気温が呼び覚ます記憶。

またもや寒さがぶり返してきた、ここ神戸市北区。耳の先が痛くなるほどに空気が冷たい。冬が来れば寒くなるのは当たり前で、毎年、経験しているはずなのに一向に慣れない。夏が来れば暑くなるし、冬が来れば寒くなる。春はその陽気で心まであたたくなるし、秋は暑さが和らいで一息つく。もう45回目の冬だというのに、季節ごとに暑いや暑いや、あたたかいや涼しいやと感じ、その体感を性懲りもなく言葉にしてきたわけだ。四季があるから当然とはいえ、そのときどきの気温を的確に感じているこのからだは律儀だとあらためて思う。

年齢によって感じ方は違う。たとえば小学生のころに感じていた冬の寒さはどうだったのだろう。今よりもっと寒かったのか、あるいはそれほどでもなかったか。「子供は風の子」というから、寒さよりも外で遊ぶ楽しさが勝って、今ほど気温の低さなど気にならなかったのかもしれない。あるいは夏の暑さはどうだろう。地球の温暖化が進む現在、外気温としては明らかに今の夏の方が暑いのだろうが、感じる側のからだが変化しているのだから実際にはよくわからない。暑さも寒さも、どう感じるかによってその体感温度は変わる。

当時と今との気温差は測るべくもないが、ただ体感温度に付随して蘇る記憶がある。

ラグビーのシーズンは冬である。シーズン前の木枯らし吹くころは、目標とする大会に臨む前のなんともいえない高揚感がつきまとう。夏が終わり、日暮れになると肌寒く感じるころには、今でもあのときの高揚感が湧く。19年間ものあいだ繰り返してきた日常のサイクルが、引退して10年が過ぎた今でも「あのころ」をまだ憶えている。冬が深まってくると、凍える指先や唇のカサつきで当時の緊張感が蘇る。もう試合をしなくてもいいのに、からだはまだその準備をやめない。いや、違った。からだではなく「こころ」の方だ。体感する寒さが引き金となり、勘違いしたこころがその準備をし始める。冬になればどこか意気揚々となるのは僕が昔ラグビーをしていたからで、習慣がこれほどまでに深く心を制御することに驚くばかりである。

研究室のデスクに座って仕事に精を出しながらも、このデスクワークにまだこころは慣れていない。当時のラグビー仲間にも、今だにデスクワークに慣れない人がいる。結構、いる。「昔取った杵柄」で、少々乱暴にからだを使うことに慣れてしまうと、じっとし続けるのが苦痛になるのかもしれない。じっとし続けることで、どこかからだが錆びついていくような不安にも、たまに襲われる。幸いなことに僕は太る体質ではなく、現役時代も体重の増加や維持に苦しんだ方なので、脂肪を蓄える恐れはないのだけれども、それでもからだの芯の方でなにかが損なわれているような気がしてならない。

動きたい。とにかく動きたい。一人で走ったり、アクティビティに取り組めばいいだけなのだけど、できることならば集団で、なにかゲームのようなことを通して、仲間とコミュニケーションをとりながら伸び伸びとからだを動かしたい。そんな衝動を抑えながら今日も一日、パソコンの前でずっと仕事をしていたのでした。

また明日からもがんばろう。