平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

また今年も走るのか、オレは。

神戸マラソンまであと4日。大方の予想通り、今年もやっぱり走ることにしたのでした。


昨年は栄養補給のことなど全く考えずに臨んだために「ハンガーノック」状態になり、2時間を超えた辺りから全身がまるで鉛のように動かなくなった。先入観を作らないというか、42.195kmを走ることがどれほどのものかを身体そのもので感じたいと、「マラソン完走マニュアル」系の情報をなるべく詰め込まないようにしたのだが、少し度が過ぎたようである。必要最低限の情報はやはり知っておく方がよい。頭でっかちなまでに知っておく必要はないけれど、それなりにわかっておかないと楽しめるはずのあれこれを見過すことになる。どこをどう逆立ちしても人間は約2時間を超えて走り続けることは困難である。それを痛切に感じた初のフルマラソン参戦なのであった。


これだけたくさんの情報にまみれている現代においては、それらのいくつかを遮断するためにときに耳を塞ぐことが必要になる。言葉の情報に縛られてしまい身体感覚が鈍るということがあり得るからである。「感覚」を疎かにしているとだんだんその感度が衰えてくるから厄介きわまりない。しかし、その「感覚」は頼り過ぎればいとも簡単に騙される。言葉と感覚の関係って、まるでややこしい。


そう言えば、羽生善治の最新刊『直感力』(PHP新書)には「直感とは論理的思考が瞬時に行われるようなものだ」と書いてあった。幾重にも言葉を積み重ねないことには直感は働かない。つまり直感は言葉も情報もないゼロの状態から突如として生まれるわけではないということだ。言葉も情報もない状態で感じる直感、つまり「感覚」は頼りにならない。マラソンにおける体感に将棋における直感を対置するのは、やや無理筋かもしれないが、僕がここで言いたいのは「感覚的なもの」の実感ということで、そのニュアンスを汲み取っていただければ有り難い。身体感覚にはまやかしも多く、それを直感が働いたと勘違いしてしまうケースが多々あることだけは念頭に置いておくべきであると僕は思う。


ちなみに昨年の記録は5時間44分。折り返してからゴール直前までの距離をほとんど歩いたのだから致し方ない結果である。とは言え、つい数年前まで身体を使って生計を立ててきた元ラグビー選手にしては、とてもじゃないけど胸を張れない情けないタイムである。今年はこの記録を少しでも縮めたい。せめて4時間台でと意気込んではいるものの、こればかりは走ってみないことにはわからない。果たしてどうなることやら。期待と不安が入り交じってなんだかよくわからない心理状態になっているのが、本日の心境である。当日はかなり冷え込むとの予報なので、防寒をしっかりして臨みたいと思う。


(最後にこそっと付け加えておくが、「絶対に4時間台で走ってやる」という決意こそが力みを生むので敢えてこのような表現に留めたけれど、内心はそれに近い気持ちを持っている。「力を抜く」という所作は本当に難しい)