平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

2020年7月6日。

大学のあるここ神戸市北区も朝から雨が降り続いている。球磨川が氾濫し、広範囲で被害を受けている熊本は大丈夫だろうかと、灰色の雲で視界が遮られる西の空を眺めてみる。さらにその先の、国家安全維持法が施行されたばかりの香港にも思いを馳せる。今朝のニュースによれば、公立図書館で民主活動家らの著書の閲覧と貸し出しが停止されたらしい。自由が奪われたかの国で過ごす若者をはじめとする国民を思うと、胸がしめつけられる。

東はというと、昨日の都知事選で現職の小池百合子氏が圧勝した。前日までのTwitter上では、投票率が史上最高になるかもしれない期待で溢れかえっていたが、なんてことはない。蓋を開けてみれば前回のそれを下回る55%だった。僕自身もかすかな期待を抱いていただけに、残念だ。僕には小池氏のどこが評価されたのかが皆目、見当がつかない。僕が見ている日本社会とは、まったく異なる日本社会を見ている人がこんなにもいることに脱力感さえ覚える。

どう逆立ちしてもコロナ禍の今はオリンピックを開催している場合ではない。というか、たとえコロナ禍でなくともオリンピックはすでにやめるべきときに来ていると思われて仕方がない。にもかかわらず、オリンピックの強行開催を宣言している小池氏に票が集まるのはなぜなのだろう。

肝心のコロナ対策においても目ぼしい政策を行ったとはいえず、東京アラートという派手な演出と、原稿を読まずに話をするという政治家として当たり前の応答をしたのみ。大阪市長のそれと同じように、科学的根拠に乏しいながらも歯切れよく答弁を繰り返す人をなんとなく評価する昨今の風潮には、大いなる危機感を覚えている。

今回の都知事選で痛感したのは、Twitterと現実世界ではやはり大きく論調が異なるということだ。内閣のメディア戦略に電通が絡んでいたというニュースが数日前に流れていたが、それを目にしたときには「やはりね」と、さほど驚きもしなかった。ありうる話だと思えたからである。でも、その影響も実のところはそれほど大きくないのかもしれない。

SNSによる発信は、民衆感情としての「世論」の受け皿にはなり得ても、公的な意見としての「輿論」の形成には今ひとつ足りない。2011年初頭から中東・北アフリカ地域で本格化した一連の民主化運動である「アラブの春」ではSNSが一役買ったというが、表向きは生活が安定している日本のような国ではそれほど有用ではないのかもしれない。

全国民に広がったSNSの利用は、実に多様な意見を吸い上げることができる。まさにそれは玉石混交で、いや、実のところはたまに「玉」が見つかる石だらけの空間でしかなく、どれだけ真摯に発信を心がけてもカオスとしての情報の洪水に飲み込まれてしまう。匿名ではなく名を名乗って発信したとしても、所詮は画面上の文字でしかなく、対峙した生身のからだから発せられる熱のこもった言葉にはどうしたって叶わない。だから情報の分別ができない人にはどの情報も相対化されてしまい、なにを信じてよいかがわからなくなっているのではないだろうか。その結果、声の大きな人が発する情報に信を置きがちとなり、それが次第に「輿論」を形成する。

専門家からの情報を頼りにすればいいではないかと考えても、そもそもテレビのワイドショーを始め様々なメディアに出演することで「専門家」の株が大暴落している以上、専門家すら信用できない事態に陥っているといえる。ということは科学への信頼もまた大暴落しているわけで、こんな情況では誰を、何を信頼していいのかがはっきりしない。研究者の端くれとしてはこの専門家ならびに科学への不信に一定の責任があるからして、うなだれるほかない。

研究ならびに社会の動向を追いかける上で、僕はどうにも袋小路に迷い込んでいるみたいだ。ゴルディオスの結び目を剣で一刀両断にしたアレクサンドロス大王のように、山積する社会の課題に対するスパッとした解決策がないだけに、とても歯がゆい。でも結び目はやはりひとつひとつ解いてゆくしかなく、その気の遠くなる作業に取り組む意欲だけは枯渇させないように努力せねばならない。

したがって家事や子育て、オンライン授業の準備に会議に精を出しつつ、これからも空いた時間にはSNSで情報収集し、知り得た情報から主張できることはSNSを始めありとあらゆる場で発言していく。SNSの利点には、こうして着実に言論活動を行なっている同士の存在を感じられるところにある。日本ではまだ、言論の弾圧が進んでいないことだけが救いだ。