平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

教えることと学ぶこと。

実習校訪問でてんやわんやの1週間が終わろうとしている。なにぶん初めての経験だったものだから、その場その場でどう振る舞ってよいのかにいちいち意識がからんできて、大変だった。学校によっては「平尾先生ってラグビーされてたんですよね?」と切り込まれ、どこまでをどのように開いたらよいのかに慌てふためいたりもした。誠二さんと混同されていないかの確認は、もうお手のものなのだけれども。

初対面の方とお話しすることがこんなにも苦手だったなんて、改めて感じた1週間でした。しかしながら教育現場で奮闘されている中学高校の先生方の、生のお話を聴かせていただく機会というのは貴重であり、また学校というところが醸し出すあの独特の雰囲気を感じることで思いもよらない昔の記憶がよみがえったりもして、新しい発見もあった。教科書がやたらとカラフルになっていて、文字よりも絵の割合が多いんちゃうかと思ったこともそう。ボクらの時はもっと文字だらけで、ほとんど白黒に近かったのではないかと記憶しているのだけど、どうなんだろう。聖徳太子豊臣秀吉の顔に落書きしたのははっきり覚えているんだけど。

概ね学生たちは一所懸命に実習に取り組んでる様子だった。いくつかは研究授業も見させていただき、いつもと違う表情で生徒の前に立つ姿からは成長の跡がうかがえて思わず表情が緩んでしまうこともあった。ハンドタオルで絶えず汗を拭きながら授業をする学生もいて、汗かきのボクとしては共感せざるをえず、と同時に「焦ってんねやろうなあ」と心配したりもした。

学校というのはもうそれだけで独特の雰囲気があって、先ほども書いたけれどいつかの自分が味わってきた空気や匂いが思い出されて甘酸っぱい心境になる。母校でもないから全く知らないはずなのに、「先生」に見つめられるとどこか後ろめたさを感じてしまうのは、紛れもなくボクが学校から学んだことと関係しているのだと思う。とにかく「先生はえらい」のである、という教えはどれだけボクをふくよかにしてくれたのかと、改めてそう感じたのである。

ボクの立場から言うべきことではないのかもしれないけれど、やっぱり「先生はえらい」のです。先生への敬意があって初めて学べることがある。だから先生への敬意がなければ「それ」は学べない。そして先生への敬意があって初めて学べる「それ」は、生きていく上ではとてもとても大切な内容であり、はっきりと言葉で言い表せないことでもあり、目に見えないことでもある。

この点で「教える―学ぶ」の関係性は、まず「学ぶ」があって初めて築かれると考えられる。だがしかし、「学ぶ」姿勢を作るまで教師たるものは手をこまねいて見ていてはダメで、まるで「学ぶ」姿勢をもたない子どもたちを前にして「教えよう」とおせっかいをやかなくては何も始まらない。だとすればこの関係性は「教える」から築かれるとも考えられ、さっそく先ほどの言い分が否定されるわけなのだが、ここらあたりを腰を据えて考えてみると、えてして教育というものはどっちが先とはいうものではないのであろうという結論に落ち着く。何かを学んだり何かを教えたり、つまり「教えるー学ぶ」の関係性というのは何かのはずみで成立するものであって、だからそのはずみがいかにして生まれるのかについて考え続けなくてはならないのだろう。

だからこそ「先生はえらいものなのだ」という信憑は崩してはならない。学ぶ側も教える側も、この信憑を守るべく適切に振る舞うことが求められるのだと思う。それは具体的には生徒や学生は先生を信頼し、先生はその信頼に足るべく努力を継続するということ。すなわち先生の立場としてのボクができること、それはボク自身が学び続けることだ。信頼に足る人物になる、という言い回しはどこか窮屈で実感に乏しい印象が拭えないのだけど、「学び続ける」ことなら前向きに楽しんでできそうな気がするのはボクだけだろうか。

教える立場にいる人間は絶えず学び続けなければならない。

これまでに幾度も反芻してきた言葉も、こうして書いてみるとまた違った味わいで心に沁みるから不思議である。当たり前に当たり前なことほどこうして言葉にすることが必要だ。ということもまた当たり前のことだから、どうにもまたややこしい。本当に大切なことはいつもややこしい。これだけは至ってシンプルなんだけど。