平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

「純粋経験」を考える、その2。

純粋経験」について考える、その2。本日のブログはいささか思弁的な内容になる見通しなので、小難しい話はごめんだという方はここで遠慮なく他のサイトに移動してくださいね。ほぼ自分のために書いていこうと思っとりますので。でも興味のある方はぜひとも一度は目を通してみて欲しいなとも、実は思っています(ってどっちやねんな!)。

さて。

まずは、そもそも「経験・経験する」とはどういうことなのかについて考えていこう。

ボクにはラグビー経験がある。19年という長い年月をラグビーに打ち込み、幸運にも日本代表に選ばれてワールドカップに出場することもできた。全国大会優勝メンバーにも名を連ねることができたし、不遇にもたくさんのケガをして身体に傷跡が刻まれることにもなった。また、ラグビーを通じて知り合った人たちは数知れず、中には今も親しくお付き合いさせていただいている人もいる。「親が昔ファンだったのでサインをください」と講義が終わって学生から声をかけられたこともある。酒の飲み方や人とのつき合い方は良くも悪くもラグビー的である。ラグビーをプレイするという直接的な経験はもちろん、ラグビーをしていることであらゆる方面に派生する間接的な経験というのもあり、ラグビー経験にはこの両方が含まれてくる。

と考えていくと、ボクにはラグビー経験があるというときのこの「ラグビー経験」には、知識や教養、生き方や考え方や人間関係などのもろもろがくっついていると考えることができる。今ここにいるボクという人間はラグビー経験が積み重なったものと言えるだろう。

ただし、だ。ラグビー経験だけがボクをつくったわけではない。人間は日常生活の中であらゆる経験を積んでゆくものであり、もちろんボクも例外ではない。小学校の帰り道に石を蹴りながら帰ったこと、親父に叱られてベランダに立たされたこと、中学に入って自転車通学の途中に寄り道したこと、酒を酌み交わしながらグダグダすること、など、それこそ無限に列挙できる。「人間のありようは経験の積み重ねである」と考えれば、ボクはラグビー以外にもいろいろな経験を積み重ねたから今日のボクがいるわけであり、ラグビー経験はその一部にしか過ぎない。ボクという人間のほぼ中心にはおそらくラグビー的なもの、ラグビーから得たものがドカンと腰を据えていることに違いはないけれども、それでもほんの一部にしか過ぎないだろうことは予感できる。それほどに私たちはただ生きる行為の中で無意識的に身につけていくものが多い。

まさしく私たちそのものでもある「経験・経験する」を、ともすれば私たちは知覚や感覚を伴うものだと思い込んでいる。見たり、聴いたり、触ったり、味わったり、嗅いだり、直接的に感覚を通した行為こそが「経験・経験する」だと限定している。トリュフを食べたことがあるorない、ある芸能人と食事を共にしたことがあるorない、大失恋をしたことがあるorない、別館牡丹園に行ったことがあるorない、などなど。直接的に、身体的に何かと触れ合うことがどれほどの気付きと学びをもたらすかについてはなんの異論もない。「百聞は一見に如かず」という言葉もあるように、他人からの話をツギハギするよりも一目見ればそれだけでわかるってことは確かにある。知覚や感覚を伴う経験を身体的経験と呼ぶとすれば、この身体的経験が私たちにもたらす恩恵は計り知れないとも思う。今まで身体を通して感じるものやことを大切にしてきたからこそ、そう強く感じたりもする。

しかし、私たち自身をかたちづくっている「経験・経験する」は身体的経験だけにとどまるべくもない。知覚や感覚を伴うものだけが経験なのではなく、ふと立ち止まって一つのものごとを「考える」という行為もまた私たちをかたちづくる「経験・経験する」となる。これは想像力を働かせてみれば誰もがわかるはずだ。恋愛の最中にある人は相手のことを思いやり、また嫉妬を抱きつつ真剣に「考える」はずだし、仕事や将来への不安を抱えた人はあらゆる方面での思索を試みるはずである。今の自分を見つめ直すために哲学書自己啓発書を読んだり、映画館に足を運んで物語に身を浸したりもするだろう。まさにこの身を通じて、もんどりうって、身をよじらせて「考える」という行為、「考えたという経験」はまぎれもなくひとりの人間のありようをかたちづくる。

「経験・経験する」という言葉を私たちが口にする時、知覚や感覚を伴い、外部からの刺激が身体に生ずるものに限るような認識がある。だが、本当の意味での「経験・経験する」はそうではない。経験こそが人間のありようをかたちづくるという考え方からは、すなわち人間的営為すべてを「経験・経験する」と解釈することができる。だからボクにとっての「ラグビー経験」はボクという人間においてほんの一部であり、その一部に固執している点で他のあらゆる諸経験を盲目的に見落とすことにもなりかねない。これは、いつも自らの「ラグビー経験」を語る際に感じていたいやーな違和感を解きほぐすのに十分な説明だよなと、今書いていて感じたのであった。

前置きが長くなったけれども、さてここで「純粋経験」である。

純粋経験」という概念を理解するには、まず「経験・経験する」に抱いている私たちの解釈を少しばかり広げなければならない。そう感じたので少し前置きが長くなってしまったのであった。知覚や感覚が伴わずとも人間的営為すべてが「経験・経験する」であるとして、論を先に進めたい。

純粋経験」とは何か。もちろん一言で言い表すことなど不可能なわけだが、そこを敢えて言うとすればそれは「心構え」なのだとボクは思っている。西田幾多郎が「しかし、余はすべての精神現象がこの形において現れるものであると信ずる(西田幾多郎善の研究』32頁)」と述べるように、「純粋経験」は精神現象である。おおよそ私たちが抱いている「経験・経験する」に対するイメージとはこの点が大きく違うので理解に至るのが難しいのだと思われる。「純粋経験」とは私たちの意識上の問題であり、実践する、思索に耽る、沈思黙考するなどの行為にあたる際の「心構え」のことなのだ。

たとえばこの心構えは、漫画『バガボンド(32巻)』の中で宮本武蔵が“今のど真ん中にいるため”と志向する心境と類似しており、また、スポーツ選手がゾーンに入った時の心境ともおそらくは類似していると推測できる。「今の今」に自分自身が寸分違わず収まった時に訪れる、閉じつつ開いている絶妙なバランスを伴ったある種の精神状態であり、また知覚されるものや心象や表象のどれにも居着かない状態といってもいいかもしれない。

「経験するというのは事実そのままに知るの意である。まったく自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交えているから、毫も思慮分別も加えない、真の経験そのままの状態をいうのである(前掲書 30頁)」という冒頭で述べられているこの言葉に、「純粋経験」なるものの意味が凝縮されているのではないだろうか。ここは論文ではなくブログなので、細部にわたって詳しく書くことはしないでおくし、おそらく書けないだろうけれど、禅を取り入れたこの考え方はさまざまな方面への広がりを感じさせてくれる。

純粋経験」という概念を深く掘り下げていくことで意識というものがどのような構造をしているのかについての想像が膨らむだろうことは、おそらく間違いない。「すべての意識は体系的発展である(前掲書 44頁)」と述べていることからもそれは明らかであり、運動を指導するためには知っておかなければならないだろうとボクが考えている「意識・無意識」の問題に切り込んでいけるような気がしている。また読み進めながらその都度こうして書いていこうと思う。