平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

あっちとこっちで教えること。

秋学期が始まって2週間が経過した。長らくの夏休みですっかりゆるんだ身体も、この期間でいつものペースを取り戻しつつある。本務校での講義は春学期の焼き直しなので準備にはそれほど時間はかからない。ざっくりと決まっているテーマに、このほど思いついたエピソードを挟むとか、つい最近読んだ本を引用して話を膨らませるとか、そういったメンテナンス的な作業をするだけで、あとは流れのままに話をすればよい(と高を括っている)。

きちんと講義ノートを作り過ぎるとせっかく作ったのだから書かれた内容のすべてを話したい衝動に駆られる。話の筋としてはすっきりとしたものになるのだが、いかんせん学生たちは寝る。ということが実感としてわかってきたものだから、一度作り上げたノートに頼らずに話を展開するようにしている。だがしかし、いつもうまくゆくわけもなく、というよりもほとんどがうまくゆかずに講義がよちよち話になることがしばしばあって、そんなときは講義後に激しい徒労感が襲う。ただ、そのよちよち感こそが学生たちに伝わるのだと、先ほど発売されたばかりの『おせっかい教育論』(140B) には書いてあったので、それを言い訳…じゃなかった頼みの綱にしてよちよち講義を厭わないようにと心掛けている。よちよち講義は、学びの生成プロセスそのものが感じられる講義がいずれできるようなるための、必要な経験なのだと、思い込むようにしている。

ただこの秋から神戸女学院での講義が始まったので、その講義の準備には入念な準備が必要とされる。夏休みにはだいたいのテーマ割はしたのだが、なんせ初めての講義なだけに直前まで考えこんでたりする。学生たちの反応や興味や好奇心の向いてる方向などを加味した上でたえず修正を加えていくつもりなので、これからもそれなりの時間を要するだろう。でもね、なんだかとても楽しいのです。本務校での講義とは違う楽しさがそこにはある。学生たちの気質の差がありありと感じられるから自然と話の切り出し方が変わるわけで、それはすなわち同じ講義内容であってもその内容が微妙に変わる。端的にいうと、今もスポーツに打ち込んでいる学生と、そうではなく逆にスポーツに対して意図的に距離をとっている学生との違い。この違いにもしかすると少しは苦労するかもしれないなと想像していたがなんてことはない。この違いがあるから、より楽しいのだ。

ふと気付いたのだけれど、今現在もスポーツに打ち込んでいる学生たちに対しては、ボクは無意識的に先輩的な立ち位置をとろうとしている。学問的な知見をスポーツ活動の具体的な一場面につなげることで何かしらの気付きを得てほしいなと、そう考えている。でも、どちらかというとスポーツは観るもの、もしくはゆるい環境で伸び伸びと勤しんできた学生たちに対しては、いかにしてスポーツがオモシロいものであるかを語ろうとしている。こうした学生はスポーツというよりも身体を動かすこと自体に何らかの抵抗を感じているケースが多いから、せめて頑ななその部分だけでも軽くして欲しいなと、そう考えている。

前者は前者でやりがいもあるし自らがやってきたことが直接活かされてとても楽しいのだけれど、どこか必要以上に力が入るし、スポーツ選手の心理としてわかりすぎたりもするから場合によっては感情移入してしまう。でも後者は違う。スポーツというものを外側から好奇心を持って見つめてくる学生には、「よっしゃ、あれもこれも教えたろ」という気になるし、ボクにとってはごく当たり前の些細なことであっても驚嘆の声をあげてくれるから嬉しくて仕方がない。これは調子に乗らずにはいられない。

とは言えどちらが楽しいというものではなく、ボク自身が感じ始めている講義そのものの楽しさに奥行きが生まれて、そのことにワクワク感が芽生えているということだと思う。こうした違いが認識できたのも、気質の違う学生に対する講義を持てたからだ。こっちがあって向こうもあるからこそ、自らの置かれている情況をより重層的に把握できるようになった。いつかある先輩先生から「チャンスがあるならばいろいろな大学で教えてみた方がいいよ」とアドバイスを頂いたことがある。あのときの言葉の意味はなるほどこういうことだったのかと、今になって身に染みる。「講義をする・人前で話をする」ということが、これほどまでに創造的な営みで且つ深みのある身体運用が求められるとは、あの頃からすれば思いもよらなかった。慣れてきて度胸がつけば話くらいできるでしょと高を括っていたあの頃がなんとも懐かしく、恥ずかしい。「伝える」ことは本当に難しいことで、それこそ「ああでもない、こうでもない」と全身でもんどりうちながら行うべきものなのだろう。少なくとも今のボクが目指すべきは「全身でもんどりうちながらのよちよち講義」なのだろうと思う。

「伝えたいこと・伝えるべきこと」をじっくりゆっくり煮詰めていくような生活をこれからも心がけよう。それにはオモシロそうなことへのアンテナを絶えず広げておくことだな、うん。