平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

ラジオ出演を終えて、身体について語るってことを考えてみる。

SCIX練習で高校生のタッチフットに交じって久しぶりに全力疾走してさっき帰ってきた。アップシューズなのに足を滑らすこともほとんどなく、ボールをもらう瞬間のスピード感は現役の頃と変わってないかもなと思い込めるほどだったので、何だか今日は身体がスッキリしてて気持ちいい。「まだまだ動くやん、オレの身体って」と思えるのはやっぱり嬉しい。

昨日のラジオ出演は、スタッフの方々が心地よく応対していただいたおかげで、スタジオ入りしてから帰路につくまで終始にこやかに過ごさせてもらった。あまりに雰囲気がやんわりしていたことに気をよくした僕はすっかりリラックスモードに突入してしまい、身体についての持論を気持ちの赴くままに話したものだから、リスナーにはいささか小難しい内容になったのではないかと心配している。僕としてはとても楽しくおしゃべりできた30分だったので、やっぱりラジオっていいものだなあと再確認できた。また出たいものだと心で呟きながらホクホク顔で地下鉄に乗りこんだのであった。

と言いつつも、本番の話を思い返してみればやはり省みるべき点はあった。

うーん、やはり話すっていうのは一筋縄ではいかない。

それにしても身体のことを言葉で表現するのは難しい。ということをラジオで話させてもらったことで改めて自覚する。僕の感覚において理解できていることでもいざそれをアウトプットするとなれば、そこには一捻りの表現が必要となる。スポーツ経験者であったり、身体感覚に鋭い人なんかは、僕が感じるところの感覚を生の状態で投げかける方が共感を得られることも多いのだが、ほとんどの人は一捻りが必要となる。一捻りというのは、つまり感覚を理解する上で「たとえ話」という迂回を必要とするってことである。

「膝の抜き」という感覚を知るためには、「お湯を張った洗面器をこぼさずに歩くときのように」とか「氷の上で足を滑らせないように」といったたとえ話を頭に思い浮かべられれば話は早い。それぞれの頭の中にはなんとなく「膝の抜き」の感覚がジワーッと生まれ、それをもとにして実際に走ったり歩いたりすることで自らの感覚が新しく生まれ変わる。未だ知らざる感覚を身体で感じるにはこうした道のりを通るものだと僕は考えている。

その「膝の抜き」という感覚を、直接的な言葉で表現することは決して不可能なわけで、だから言葉と感覚は本質的に相容れない関係にあり、まるで水と油の関係のようだと僕はイメージしている。にもかかわらず、そのポイントを今回のラジオ出演に関してはすっかり念頭に置き忘れてしまった。これはちょっといただけなかった。間違いなく僕の心の準備不足であった。

身体を語る、それはつまり感覚を語るということでもあるために、いかにしてたとえ話を豊富に用意しておくかがとても大切になってくる。事前に用意できるものもあれば、話ながら咄嗟に思い浮かぶたとえ話もあるからなかなか難しくもあるのだけれど、日常生活において身体に意識を向けておけば、自分では思ってもみなかったシーンで自らの身体感覚をつかまえることができるからそれはそれでとても楽しくスリリングである。最近では、ある日ふと歩いているときに踵、膝、股関節の連動性が感じられて、その瞬間、自分の足にかかっていた負担がスーッとなくなるような感覚に陥った。またひとつ僕の身体が変わったのだなと、ひとりほくそ笑んだのだが、こうした実感を得られるのは何ものにも代え難いほどに嬉しいし楽しい。こうした感覚の芽生えからたとえ話は生まれることになる。

やはり僕は身体を動かすことは好きだし、もっと身体について知りたいと強く思っているから、そのようにして得た感覚を大切にしながらそれを表す言葉−たとえ話をせっせと身につけていこうと思う。

僕がこの先の人生を使って試みたいのは、「ラグビーで得た超越的な体験に哲学的な意味を与え、それを教育的にアウトプットすること」である。これはつまりのところ、曖昧な感覚を言葉で捉えようと試み、それをたとえ話で伝えるってことだ。

それにしても、自分にまつわる出来事がだんだん言葉に置き換わっていくのは気持ちが落ち着くものである。いつもにも増して今日はよく眠れそうである。