平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

懐かしさに満ち溢れて。

今、僕の部屋には久保田利伸のMissingが流れている。

ちょうど日付が変わろうとする時間帯に何気なく合わせていたサンテレビを見て、懐かしい曲が次々と紹介されるのを聴いてたらつい欲しくなり、J−Loveという4枚組のCDを勢いで買ってしまったのである。だからここ数日間のBGMはすべて懐メロである。

「恋におちて-Fall in love-/小林明子」に「夢をあきらめないで/岡村孝子」はリアルタイムには知らないけれど、なぜか懐かしくて居ても立ってもいられなくなる曲で、「You're My Only Shinin' Star/中山美穂」は少し色気づき始めた小6のときにドキドキしてた曲である。「もうひとつの土曜日/浜田省吾」を聴けば「愛という名のもとに」というドラマが思い出されてチョロの死と江口洋介のロン毛が脳裏に浮かんでくるし、「M/プリンセス プリンセス」とか「大きなたまねぎの下で〜はるかなる想い/爆風スランプ」はいつかの特定された記憶ではなくただ漠然と中学生の頃が思い出される。中学時代の友人で当時FBだったミキオの家で初めて聴いた「愛は勝つ/KAN」には、なぜかカラオケとお酒のイメージが絡んでくる。今井美樹鈴木雅之の透明感のある歌声にはいつになっても心が震える。「ZOO/エコーズ」は、大学卒業まで一緒にラグビーをしてた小2からの友人ジュウがいつかのカラオケで歌ってたはずで、聴く度に脳裏にはジュウの立ち姿が浮かんでくる。

懐メロ、という表現は少し古めかしくて響きを聴けば少々恥ずかしくもなるってなものだけれど、懐メロは懐メロである(と言い切ってみる)。懐メロにはいつかの記憶が絡みついている。そのメロディーを聴いてたときに感じていたあれこれは、忘却の彼方に追いやられることなく脳の中の記憶貯蔵室に確実にしまい込まれている。いざその記憶だけを取り出すことはなかなか難しく、普段の生活に埋没していれば懐かしむ暇もなかったりするが、ふと耳にしたひとつの曲がきっかけとなって突然意識の中に表れてくる。

そうして思い出される記憶には、細かなディテールまで鮮明な記憶とそうでない記憶がある。鮮明な記憶は、その曲を聴いたときはいつでも同じ情景が浮かぶのだけれど、そうでない記憶というのはただ漠然と懐かしいだけで、曲を耳にするごとにその懐かしさは微妙に変化する。強烈な印象として記憶に残っているわけではなく、でもそのとき確かに心が揺さぶられたという痕跡があるといった感じで、ジワーッとボワーンという懐かしさである。

たとえば当時付き合っていた彼女と別れる別れないでいろいろあったときに流れていた曲があったとして、後になってその曲を聴いたときに別れた場所などそのときの情景がはっきり思い出されるとすれば、それは鮮明な記憶である。そうではなくて、その曲を聴いたときになぜ懐かしく感じるのかについて心当たりがないんだけれど、とにかく懐かしいというのが、ジワーッとボワーンとな記憶なのである。ボワーンと感じる懐かしさの方がなんだか心地よい感じがするし、僕という人間の中に僕自身ですらわからない部分が存在することに何だかワクワクしてくる。すべてわかってしまえばその先はないけれど、まだわからない部分が存在するのだから必ずネクストステージはあるってことで、それが「可能性」への予感だったりするわけだから当然と言えば当然かもしれないが。

自分の中にまだ未知なる部分が潜んでいることの予感。

たぶんこれが心地よさの正体だろうと思う。

過去とは自身が経験してきたことの集積だから、脳の中には確実にそのすべてが詰まっているはずなんだけど、たぶんその全貌を完全網羅することは構造上の問題でできないのだろう。「えっ、そんなことあったっけ?」と、誰かからの一言で忘れていた過去を思い出すこともままにあるわけだから。私たちは自分のことは自分が一番よくわかっていると思い込んでいるけれど、実はあんまりよくわかっていないんじゃないかと僕は思う。だからというわけでもないのだが、自分が今までどんな道を歩んできたのかを振り返ってみることを、現役を引退してからというものことあるごとに無意識に行っているのだけれど、そのときには明らかに平尾剛という人間をどこか他人のようなまなざしで見つめている自分がいる。そうしてせっせとひとつの物語を編んでいる。たぶんこれからもずっとそうだろうと思うが、確実に見る自分と見られる自分が、いる。

懐かしさと言えば、本を読んでいるときや人から話を聴いているときなんかに、文字や声によって身体の芯から納得したときに「なるほど」と感じるあの感覚は、懐かしい感じに似ている。これまで聴いたことがなかったことを初めて聴いたという風じゃなくて、実は遥か昔に知っていたことを思い出したような感じに近い。だとすればそれは、脳の中に沈殿している本人すらも覚えていないような記憶が引き出されていることの証左なのかもしれない。温故知新ということばはおそらくこうした知的活動の現象を表したことばなんだと思う。実は私たちはすべてを知っていて、まるで思い出すかのようにして新しきことを知るのだ。たぶん。

と、相も変わらず思考が暴走し始めたのでここらあたりで今日は筆をおくのである。

さて、明日はラジオ出演が控えている。

今僕が感じている身体についてのあれこれを話してこようと思う。

興味のある方はぜひ聴いてみて下さいませ。

それではおやすみなさい。