平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

『対話のある家』(@SUMUFUMULAB)体験記その3。

 そうこうしているうちに「家」に辿り着いた。玄関で靴を脱ぎ、皆でぞろぞろと家の中に入る。フローリングの部屋(たぶん)から畳の部屋へと入り、そのまま庭に出た。そこで「人間知恵の輪」をして遊んだあと、畳の部屋でちゃぶ台を囲んでしばしの談笑。その場で寝転がってみたり、会話を楽しんだり、みかんとせんべいを食べたりもした。いってみれば暗闇での家族団らんである。このときになると不安や怖さは一切なく、むしろ心地よさが広がっていた。懐かしい感じもした。

 そういえば「せんべい」を食べるときに、いつもとは違う奇妙な感覚が芽生えた。「せんべいをどうぞ」と手渡されているのだから、それが「せんべい」であることはもちろん認知している。たぶんあのときの僕の胃袋は「せんべい」の形にへこんでいたはずだ。ただ、味を知らされていないし、見かけもわからないので、なに味の「せんべい」かはわからない。ざらめのついた甘辛味かもしれないし、塩味、もしくは醤油かもしれない。手に取ったときのざらつきで醤油かもしれないなとは感じたが、見えないので口に入れるまでは確定はできない(あっ、匂えばよかったのか)。

 ほぼ予測がつかないまま口にしたその味は塩味だった。恐る恐る口に入れて、味を確かめようとしたからだろうか、味の余韻が飲み込んでからしばらくたっても残り続けた。たぶんこれは「味わう」ことに全感覚を総動員しようと試みたからだろうと思う。視覚が働けば見かけと経験則でだいたいこんな味だと予測できるし、予測が立てば各感覚器はその出力を下げる。

 だが、暗闇ではそうはゆかない。もし、身体を害するものだとすぐに吐き出さねばならず、その判断を口の中に入れて「味わって」から行なう必要がある。となれば、各感覚器は反対にその出力を最大化し、「味わう」ことをより丁寧に行なわざるを得なくなる。「どんな味かわからないし、身体に無害かどうかもわからない」という事態に味覚や嗅覚や触覚の感度が上がる。このときの「研ぎすまされ感」を僕は「奇妙」に感じたのだった。

 

 さて、そろそろまとめに入ることにしよう。

 今回、暗闇の中で「家」を体験して感じたのは、ある空間を快適に感じるのに視覚はそれほど役に立たないのではないかということである。やや言い過ぎのような気もするけれど、少なくとも他の感覚と比して優先順位は高くないと思う。

 五感の働きの総量は決まっていて、普段の生活ではそのほとんどを視覚が占める。身体が察知する情報量の8割が視覚によるとも言われており、ということは、残りの2割を聴覚や触覚などの残りの感覚器で感じていることになるわけで、それはつまりほとんど使っていないということである。だから「目で見よう」という身構えがスタンダードな身体は、暗闇に入るや否や多いに戸惑う。視覚情報がゼロの状態に立ちすくむわけだ。

 しかし、僕たちが思っているほど身体は柔じゃないし、馬鹿でもない。視覚が役に立たない情況になると他の感覚器が目覚め出す。「オレらって実はこんなにもいろんなことがわかるんだぜ」と耳も鼻も口も肌も自己主張を開始し、本来の力を発揮する。そのなんだかよくわからない蠢く感じがとても不思議で心地よかったのである。

 ツイッターではある方からこんな感想を頂いた。「まるで胎児になった気分になって、とてもやすらげました」と。感覚が研ぎすまされるような実感があった僕とは対照的な印象である。「研ぎすまされる」と「やすらぐ」とは対局にある体感ながらも、なぜだかこの「やすらぐ」というのもよくわかる。

 胎児は母親のお腹の中ではやすらぎながら、その心身はめまぐるしく成長してゆく。身体の各部位が発達するに連れて感覚が研ぎすまされるのを、胎児はほとんど暗闇の中で感じるわけである。ここから考えれば、「やすらぐ」と「研ぎすまされる」が混ざり合う体感を覚えたのは頷ける。

 かつて胎児だったときの朧げな記憶を暗闇は蘇らせてくれる。とすれば、本質的な「快適さ」は主に視覚以外の各器官で感じるというのも、あながち的を外してはいないのかもしれない。

 ちゃぶ台が置かれたあの畳の部屋の間取りは、今でもはっきりと「記憶」されている。もちろんそれはあくまでもイメージにしか過ぎないのだが、畳の肌触りや隙間風やちゃぶ台の高さ、それにせんべいの味も相まって、あの部屋の記憶がありありと「ここ」にある。余韻をともなうイメージとしてのこの記憶のしつこさが、視覚に頼ることの危うさと、他の感覚を束ねるものとしての「肌感覚」の確実性を物語っている気がしてならない。映像を始めとした「視覚情報」が溢れる現代社会が、どのような影響を身体に及ぼしているのか。そんな大きなテーマについても考えさせられる今回の体験であった。

 かなりざっくりとした体験記になってしまった。やや読みにくい箇所が目立つ文章になった気がするけれど、このままアップすることにする。というのも、一連の体験ではあまりに情報入力が多すぎて、何から書けばよいかをうまく整理できなかったのである。あれもこれもどれもそれも書きたくなり、また「うまく言葉にできないながらも言いたいこと」なんていうのもうっすらとあって、正直なところ頭の中はてんやわんやである。だが、こうした事態こそが視覚以外の感覚器による情報受信量の多さを物語っており、恐るべしDIDである。

 百聞は一見に如かず。興味のある方はぜひ体験をおススメしたい。