平尾剛のCANVAS DIALY

日々の雑感。思考の痕跡を残しておくために。

書くのも考えるのもスポーツをするのも、結局のところ暇だからなんだよな。

ここんところ間延びしまくりのブログでございます。
書きたいことは山ほどあっても書く気になれないのはまあいつものことで、こうして書き始めてみると意外にも筆が進むのはこれまでに何度も経験しているはずなのにそれでも更新しないのは、それなりの理由があるんだろうけれど、その理由を今はまだうまく説明することはできそうもない。

どう考えても僕は「書くこと」なしには生きていけない体質に変わったのに、そうなった今となっても「書くこと」への距離感が伸びたり縮んだりする。ことばとは、言説とはまことにオモシロいもので、自らの手中にありながら遠くへ飛散するようにして展開していく。書けども書けども「言いたいこと」をズバリと表すことはできなくて、「そうじゃなくて、でも、ああでもなくて、こうでもないんだ」という迂回そのものを提示することでおぼろげながらに「言いたいこと」の輪郭が浮かび上がってくる。

そもそもが「まずは言いたいことがあってそれを書き連ねる」という順序が違うわけで、自らが書いたものを読み返し「なーんだ、オレってこんなことが言いたかったのか」という事後的な解釈でもってしか本当に「言いたいこと」はわかってこない。「あれも書こう、これも書こう」と頭の中でくっきり思い描いたことはまずそのままことばになることはあり得なくて、書きながらにその想いは形を変えていく。自らの想いが変化していくダイナミズムを身体で感じられるから「書くこと」はオモシロいのである。

とまあ、久しぶりのブログがあまりにも抽象的な内容ですまない。こうした内容になるのを実のところ僕自身も困っている。なぜこうした内容になるのだろう、心のままにキーボードを叩いていけばまるで誘われるようにしてことばを練り込んでしまうのである。具体的に書きたいことはいくらでもあるのに。

たとえば先週は、我が師内田樹先生と養老孟司氏の対談を聴いた。「逆立ち日本論」という以前お二人が出版された本の題名がそのままテーマとなったその対談では、数々の心に残ることばを頂くことができた。中でも「現代人は有史以来いちばん暇なんじゃないかな」という養老氏の何気ない一言は、僕の脳みその端っこに引っ掛かってしばらくとれそうにない。対談後の打ち上げと帰り道でした内田先生との話はすっかり僕の血となり骨となりつつある。内田先生がブログでその時のことを書いているのを目にして思わずニンマリするといううれしい事件もあった。

まあそうした方々の話を聴き、僕の心を震わす書物を読んだ後となっては、スポーツそのものへの問い直し作業が、今着々と僕の中で進みつつある。今の僕の半生を占めるラグビーにしてもそうだ。それを含んだスポーツというものは根源的な意味で私たちに幸せをもたらしているのかどうか、研究が深まる中ではますます疑問に感じつつある。あらゆる側面を簡略化し、または視界の外に追いやってからの手放しでスポーツを礼賛する現在の風潮はいかがなものか。そうしたスポーツを僕はまぎれもなく斜めから見つめていることだけは確かだが、これだけスポーツからたくさんのことを得て、学んだ身として現在のスポーツ事情を簡潔に述べることはなかなか難しい。ただ、自らの身体を差し出して「これだけはアカンやろ」と確信の持てることだけは積極的に発言するようにしている。まあ、これが今の僕の立ち位置であり、スタイルでもある。

スポーツはどこに向かおうとしているのか。実のところそれがいちばんよく分からない。完全なるアスリートを育て上げて世界に伍して戦うために、子どもの頃から徹底した英才教育を行うのか。それとも遊びの延長上にスポーツを位置づけて身体性の涵養に重きを置くのか。それともただの娯楽として生涯そのスポーツに携わるような仕組みをつくるのか。それぞれの分野でそれぞれが手前勝手に喧伝しているがゆえに、それぞれのええとこ取りみたいなことになって、実際にスポーツに携わっている者が引き裂かれるようにして心もカラダも傷ついているというのが現状だと思うのだ。アスリート育成か心身の発達か健康的な生活か、それら目的をはっきりと明確に区別して行えというわけではないが、少なくともスポーツにはいろいろな目的があり、それらは比較考量できず並列的に存在することの社会的合意は為されるべきだろうと思う。そうすれば、身体をどこまで改造してもいいのかという根源的な問いへと発展するかもしれない。ドーピングは未来を担保に入れて現在におけるハイパフォーマンスを手に入れることだから、いずれ自らの身に跳ね返ってきたときになってから周囲に迷惑をまき散らすようにジタバタしさえしなければ構わないのでは、なんてちょっと過激なことを考えてみたりもしているのも、根源的にスポーツを問い直す姿勢があればこそである。

と言いつつも僕はやっぱりスポーツは好きで、関西学院大の優勝に胸を躍らせ、大学選手権初戦の日体大戦を何とか見に行けないかと画策してみたり(もちろん母校同志社大の試合を見たいのもある)、昨日は全勝の東芝に完勝した神戸製鋼の面々を眺めながら懐かしさとうれしさを噛みしめたり、京産大の大西監督が辞任するニュースに驚きつつも時が経つことの儚さを感じたりしている。これだけスポーツが私たちの日常を埋め尽くしているのを思えば、養老氏が言っていた有史以来の暇な時間を持て余していることの表れだろう。暇だから仕方なくスポーツをやっているんだったらとことんまで楽しまなくてはどうする、というのが今のところの僕の言い分ではあるが。

さあ、帰ろう。